国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
白川城跡
ふりがな
:
しらかわじょうあと
白川城跡(遠景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
鎌倉時代後期~戦国時代
年代
:
西暦
:
面積
:
366597.43 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
140
特別区分
:
指定年月日
:
2016.10.03(平成28.10.03)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
福島県
所在地(市区町村)
:
福島県白河市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
白川城跡(遠景)
解説文:
詳細解説
白川城跡(搦目城跡(からめじょうあと)とも言う)は,鎌倉時代後期以降,陸奥国白河荘(しらかわのしょう)(現・福島県白河市及び西白河郡一帯)を拠点として繁栄した白河結城(しらかわゆうき)氏の居城跡で,白河市中心部の東南方約2km,阿武隈川(あぶくまがわ)右岸の丘陵部に所在する。白河結城氏は,南北朝の動乱を経て,現在の福島県中通り一帯の軍事警察権を行使する検断職(けんだんしき)に任じられ,室町時代には奥州南部から北関東まで勢力を拡大したが,16世紀代に入って以降次第に衰退し,天正18年(1590)の奥羽仕置(おううしおき)により改易となった。平成22年度から同27年度にかけて,白河市教育委員会による城跡の発掘調査が実施され,東西約950m,南北約550mの範囲で多数の平場(ひらば)・土塁(どるい)・堀等の遺構が良好に遺存することが判明した。城跡は,御本城山(ごほんじょうやま)地区を中心とする西側の遺構群と,搦目山とその西側に派生する鐘撞堂山(かねつきどうやま)と呼ばれる2本の尾根上を中心に展開する東側の遺構群から成る。南北朝期の中心は御本城山地区であり,その後,搦目山地区に中心が移動したことや,16世紀後半頃に城跡全体で改修が行われたこと等が想定される。中世の陸奥南部地域における鎌倉武士の政治的発展と,その変容の歴史を知る上で貴重である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
白川城跡(遠景)
白川城跡(搦目山地区 感忠銘碑)
白川城跡(御本城山地区)
写真一覧
白川城跡(遠景)
写真一覧
白川城跡(搦目山地区 感忠銘碑)
写真一覧
白川城跡(御本城山地区)
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解説文
白川城跡(搦目城跡(からめじょうあと)とも言う)は,鎌倉時代後期以降,陸奥国白河荘(しらかわのしょう)(現・福島県白河市及び西白河郡一帯)を拠点として繁栄した白河結城(しらかわゆうき)氏の居城跡で,白河市中心部の東南方約2km,阿武隈川(あぶくまがわ)右岸の丘陵部に所在する。白河結城氏は,南北朝の動乱を経て,現在の福島県中通り一帯の軍事警察権を行使する検断職(けんだんしき)に任じられ,室町時代には奥州南部から北関東まで勢力を拡大したが,16世紀代に入って以降次第に衰退し,天正18年(1590)の奥羽仕置(おううしおき)により改易となった。平成22年度から同27年度にかけて,白河市教育委員会による城跡の発掘調査が実施され,東西約950m,南北約550mの範囲で多数の平場(ひらば)・土塁(どるい)・堀等の遺構が良好に遺存することが判明した。城跡は,御本城山(ごほんじょうやま)地区を中心とする西側の遺構群と,搦目山とその西側に派生する鐘撞堂山(かねつきどうやま)と呼ばれる2本の尾根上を中心に展開する東側の遺構群から成る。南北朝期の中心は御本城山地区であり,その後,搦目山地区に中心が移動したことや,16世紀後半頃に城跡全体で改修が行われたこと等が想定される。中世の陸奥南部地域における鎌倉武士の政治的発展と,その変容の歴史を知る上で貴重である。
詳細解説▶
詳細解説
白川城跡は、中世、白河荘(しらかわのしょう)(福島県白河市及び西白河郡一帯)を拠点として陸奥国南部を支配した白河結城(しらかわゆうき)氏歴代の居城跡であり、搦目城跡(からめじょうあと)とも言う。城跡は、白河市中心部の東南方約2km、阿武隈川(あぶくまがわ)右岸に南側から樹枝状に張り出した、比高約60mの丘陵部に所在する。 白河結城氏は、鎌倉武士として有名な下総(しもうさ)結城氏の一族である。結城氏と白河との関係は、結城朝光(ゆうきともみつ)が奥州合戦の恩賞として白河荘を賜ったことに由来し、鎌倉時代中期以降、結城氏の庶子が下総から白河に移住し、阿武隈川の南岸(南方(みなみかた))と北岸(北方(きたかた))において郷村の開発を行うようになった。白河結城氏の祖・祐広(すけひろ)(朝光の孫)は、13世紀後半に白河に下向し、南方地頭職(じとうしき)として荘園南部を支配したと考えられ、『白河風土記』(文化2年〈1805〉)では「列封略伝等も祐広を白川城跡の始めと記しぬ」とし、白川城を本拠としていたとする。祐広の子・宗広(むねひろ)は、後醍醐天皇の命に応じ、新田義貞(にったよしさだ)等とともに鎌倉幕府を滅ぼし、天皇の信任を受け、結城家惣領の綸旨を与えられ、宗広次男の親光(ちかみつ)とともに、南朝勢力を支える存在となった。宗広嫡男の親朝(ちかとも)は、南朝勢力の退潮を踏まえて足利尊氏の北朝・武家政権側への転身を図り、その後の繁栄の基礎を固めた。南北朝の動乱を経て、白河結城氏は白河荘全体を掌握するとともに、福島県中通り一帯の軍事警察権を行使する検断職(けんだんしき)に任じられ、室町時代には奥州南部から北関東まで勢力を拡大するに至った。しかし、永正(えいしょう)7年(1510)、惣領の政朝(まさとも)が一族の小峰(こみね)氏によって追放され(永正の変)、小峰氏の血統による新たな白河結城氏が成立した。また、この時期に結城氏の本拠も白川城から小峰城(こみねじょう)に移ったとされている。その後、周辺の有力大名に押されて白河結城氏の影響力は次第に失われ、佐竹(さたけ)・葦名(あしな)氏を経て伊達(だて)氏に従属するようになった。遂に天正18年(1590)の奥羽仕置(おううしおき)で白河結城氏は改易、約400年に及ぶ南奥支配は終焉を迎えた。江戸時代の文化4年(1807)には、宗広・親光親子を顕彰する「感忠銘(かんちゅうめい)」碑が城跡北側崖面の岩塊に彫られ、昭和28年(1953)、城跡は福島県指定史跡となった。また、白河結城氏については、800点以上に及ぶ文書が伝来し、当該期の動向を知ることができ、『白河市史』の編纂等もあって、近年、情報収集と研究が進捗している。 白河市教育委員会では、平成22年度から同27年度にかけて、城跡の範囲・内容確認を目的とした発掘調査等を実施し、東西約950m、南北約550mの範囲で多数の平場・土塁・堀等の遺構が良好に遺存することを確認した。城跡は、御本城山(ごほんじょうやま)地区を中心として、北東方に伸びる中山地区、北西方の藤沢山地区・藤沢地区から成る西部遺構群と、谷部を挟んだ御本城山の東側で、搦目山とその西側に派生する鐘撞堂山(かねつきどうやま)と呼ばれる2本の尾根上を中心に展開する東部遺構群から成る。御本城山地区では、1号平場において盛土による土地造成や土塁、柱列、竪穴遺構、溝等を検出し、14世紀代と16世紀代の遺構面を確認した。1号平場の北東部にある2号平場では、16世紀後半代の道・土塁、14世紀代の門の一部と考えられる遺構を検出した。14世紀代の遺物として、中国製青磁(酒海壺(しゅかいこ)・水盤(すいばん))が出土した。また、中山地区の西端には、延長約130mの堀が残る。一方、御本城山地区の東に存在する鐘撞堂山地区では、2条の長大な堀が南半分に展開し、丘陵頂部では平場造成、地下式坑の遺構のほか、桁行4間、梁行3間の総柱と思われる建物を確認した。また、搦目山地区では、丘陵頂部平場で建物、柱列、土塁を確認した。建物は、桁行4間、梁行2間の東西棟の身舎(もや)に、北・東・南側に庇または縁が付くもので、15~16世紀代に位置づけられる。 御本城山地区では、2号平場を中心に14世紀代の遺構・遺物を確認でき、南北朝期における城館の中心が御本城山地区であると考えられる。その後、同地区の遺構は減少し、室町期以降の出土遺物は東部の遺構群に多い傾向があり、城館の中心が搦目山に移動した可能性が考えられる。また、御本城山地区周辺では16世紀後半頃に南北朝期の遺構面を覆う形で行われた大規模な整地を確認でき、藤沢山地区等でも同様な状況を確認できることから、この時期に城全体で改修が行われたと推定できる。南北朝期の遺構が良好に残る大規模な城館として貴重な事例と評価される。 このように、白川城跡は、鎌倉時代後期に陸奥国白河荘を拠点として活動し、南北朝期以降、陸奥南部地域を支配下に収めて繁栄した白河結城氏の居城である。発掘調査によって南北朝期から戦国期にかけての遺構等が良好に遺存していることが確認された。陸奥南部地域における鎌倉武士の政治的発展とその変容を知る上で貴重なことから、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。