国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
備後国府跡
ふりがな
:
びんごこくふあと
備後国府跡(掘立柱建物)
写真一覧▶
地図表示▶
解説表示▶
種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
8世紀~12世紀
年代
:
西暦
:
面積
:
19488.36 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
140
特別区分
:
指定年月日
:
2016.10.03(平成28.10.03)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
広島県
所在地(市区町村)
:
広島県府中市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
備後国府跡(掘立柱建物)
解説文:
詳細解説
広島県南東部に位置する古代備後国の国府跡。『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』に「国府在」とみえる葦田(あしだ)郡に属するため国府所在地と推定されており,昭和42年度以降の発掘調査によって考古学的裏づけが与えられた。ツジ地区では8世紀を中心にほぼ方一町の区画溝に囲まれた規模の大きい掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)群が建ち並び,区画溝を失った9世紀以降も大型建物が礎石建物(そせきたてもの)に建て替えられ,10世紀末まで存続した。出土遺物には国府系瓦,腰帯(ようたい)具,陶硯(とうけん)や,須恵器・土師器の供膳(きょうぜん)具とともに,備後国内では他に例をみない量の国産施釉陶器や貿易陶磁器が12世紀まで連綿と認められることから,ツジ地区には文書行政,給食,饗応などに用いられた備後国内で最も格式高い施設のひとつが存在したと考えられる。この他,礎石建物や苑池遺構を検出した金龍寺東(きんりゅうじひがし)地区や伝吉田寺をはじめ,官衙(かんが)関連遺物が出土した他の施設の多くでツジ地区と同笵の平城宮式軒瓦が共有されるため,これらが広域で一体的に機能した国府の多様な構成要素として理解することが適当と考えられる。備後国府跡は,8世紀から12世紀にかけて,国府の成立から衰退までの変遷を知ることができ,古代の地方支配の実態を知る上で極めて重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
備後国府跡(掘立柱建物)
備後国府跡(礎石建物基壇・階段)
備後国府跡(出土遺物 腰帯具類)
備後国府跡(出土遺物 陶硯・水注)
写真一覧
備後国府跡(掘立柱建物)
写真一覧
備後国府跡(礎石建物基壇・階段)
写真一覧
備後国府跡(出土遺物 腰帯具類)
写真一覧
備後国府跡(出土遺物 陶硯・水注)
Loading
Zeom Level
Zoom Mode
解説文
広島県南東部に位置する古代備後国の国府跡。『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』に「国府在」とみえる葦田(あしだ)郡に属するため国府所在地と推定されており,昭和42年度以降の発掘調査によって考古学的裏づけが与えられた。ツジ地区では8世紀を中心にほぼ方一町の区画溝に囲まれた規模の大きい掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)群が建ち並び,区画溝を失った9世紀以降も大型建物が礎石建物(そせきたてもの)に建て替えられ,10世紀末まで存続した。出土遺物には国府系瓦,腰帯(ようたい)具,陶硯(とうけん)や,須恵器・土師器の供膳(きょうぜん)具とともに,備後国内では他に例をみない量の国産施釉陶器や貿易陶磁器が12世紀まで連綿と認められることから,ツジ地区には文書行政,給食,饗応などに用いられた備後国内で最も格式高い施設のひとつが存在したと考えられる。この他,礎石建物や苑池遺構を検出した金龍寺東(きんりゅうじひがし)地区や伝吉田寺をはじめ,官衙(かんが)関連遺物が出土した他の施設の多くでツジ地区と同笵の平城宮式軒瓦が共有されるため,これらが広域で一体的に機能した国府の多様な構成要素として理解することが適当と考えられる。備後国府跡は,8世紀から12世紀にかけて,国府の成立から衰退までの変遷を知ることができ,古代の地方支配の実態を知る上で極めて重要である。
詳細解説▶
詳細解説
備後国府跡は、広島県南東部を流れ瀬戸内海にそそぐ芦田川が形成した沖積平野に位置する古代備後国の国府跡である。『延喜式』では備後国の等級は上国とされ、守、介、掾、目、各一名の国司が赴任したとされる。現在、府中市の市街地となっているこの場所は、『和名類聚抄』に「国府在」と記載がある古代の葦田郡に属することに加え、古代末の成立とされる総社(小野神社)が存在すること、「府中」という地名が現在まで残ることから、長らく国府の存在が推定されてきた地域であった。 昭和42年度以降、広島県教育委員会や府中市教育委員会等が継続的に実施してきた発掘調査によって、府中市市街地の広い範囲において古代の遺構を確認している。すなわち、8世紀から12世紀に及ぶ遺構変遷が明らかになった金龍寺東(きんりゅうじひがし)地区とツジ地区を筆頭に、備後南部最古段階の創建である伝吉田寺跡、土塁を伴う区画溝から「所」「京」といった墨書土器が出土したドウジョウ地区、倉庫とみられる総柱掘立柱建物2棟が確認された砂山地区、区画溝から10世紀後半の近江産緑釉陶器が多量に出土した大マヘ地区、古代山陽道推定地に近接して長さ60cmを超える人形や国司に関わる「権介」の墨書土器が出土した鳥居地区等、地方政治の拠点が存在したことを色濃く示す遺構・遺物が集中することが判明している。 発掘調査で内容が明らかになった市街地北西部の金龍寺東地区と同北東部のツジ地区では、Ⅰ期(7世紀末〜8世紀後半)、Ⅱ期(8世紀末〜10世紀)、Ⅲ期(11世紀〜12世紀後半)、Ⅳ期(12世紀末〜13世紀)の遺構変遷を把握している。 金龍寺東地区では、まずⅠ期に数棟の掘立柱建物群が建てられ始める。Ⅱ期には中心建物として乱石積基壇をもち四面廂をめぐらせた瓦葺礎石建物等、2棟の礎石建物が造営され、その南には南北棟長舎建物と、中島をもつ苑池が築造されたのち、Ⅲ期以降に廃絶を迎えた。苑池からの出土遺物には墨書土器や唐三彩等が含まれる。また、金龍寺東地区の西側に近接して、昭和17年に広島県立府中高校教諭であった豊元国氏によりいち早く発掘調査が行われた伝吉田寺跡が位置する。塔と講堂の基壇が確認されており、塔基壇は一辺14.5mと地方古代寺院としては規模が大きい。出土瓦から、創建は7世紀後半に遡ると考えられる。 ツジ地区は、市街地全体に残る条里型地割とは異なる正方位地割が存在することから、備後国府政庁域の存在が指摘されたこともある地区である。まずⅠ期に、ほぼ方一町にめぐる区画溝に囲まれた正方位の掘立柱建物が出現する。溝で囲まれた区画中央部では、地鎮遺構と考えられるガラス小玉54個を納めた奈良三彩蓋付小壺が出土した。Ⅰ期後半の8世紀中頃になると区画内の建物は再構成され、区画の中心付近を通る南北軸線上に、廂付を含む東西棟掘立柱建物群が南北に建ち並んで区画の中心施設を構成するとともに、区画北東部や南東部にも掘立柱建物群が設置される。瓦の出土量からみて瓦葺建物も存在したと考えられ、他の地区や備後国分寺で共通して用いられる平城宮式軒瓦(いわゆる国府系瓦)のうち最初期のものが本地区と砂山地区で使用されている。Ⅱ期には区画溝が失われるが、掘立柱から礎石建ちに造りかえられた二面廂付東西棟建物と、小規模な掘立柱建物群から成る施設が営まれた。Ⅲ期以降には大型の建物群は認められなくなり、小規模な掘立柱建物が建てられる。 ツジ地区の出土遺物には国府系瓦、腰帯具、陶硯や、須恵器・土師器の供膳具などがあるだけでなく、備後国内では他に例を見ない量の国産施釉陶器や貿易陶磁器が出土したことが注目される。緑釉陶器は京都産や近江産、灰釉陶器は東海産が多数を占め、皿・椀類といった供膳具を主とする。貿易陶磁器も白磁と越州窯系青磁等の高級食器を中心としている。こうした遺物の出土からみてもツジ地区には、文書行政、給食、饗応などに用いられた備後国内で最も格式高い施設の一つが存在したと考えられる。また、陶硯類や国産施釉陶器・貿易陶磁器はⅠ〜Ⅲ期を通じて出土することから、建物配置等に変化は認められるものの、この施設は当該時期を通じて同様の機能を有していた可能性が考えられる。 これに前後して、金龍寺東地区や伝吉田寺跡をはじめ他の地区でも、政治あるいは宗教施設等が広域で整備され、8世紀後半以降はその多くにツジ地区と同笵の平城宮式軒瓦が共通して使用されることから、これらの施設が相互に関連して一体的に機能していたことが分かる。 したがって、国庁こそ未確認ながら、府中市市街地に展開している以上の遺構群は、備後国府の多様な構成要素として理解することが適当と考えられる。8世紀から12世紀にかけて、国府の成立から衰退までの変遷を知ることができ、古代の地方支配の実態を知る上で極めて重要な遺跡といえる。よって、様相が判明し条件の整った地区につき史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。