国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
鳴門板野古墳群
ふりがな
:
なるといたのこふんぐん
鳴門板野古墳群(大代古墳 竪穴式石室)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
弥生時代終末期~古墳時代前期
年代
:
西暦
:
面積
:
24520.02 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
140
特別区分
:
指定年月日
:
2016.10.03(平成28.10.03)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
徳島県
所在地(市区町村)
:
徳島県鳴門市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
鳴門板野古墳群(大代古墳 竪穴式石室)
解説文:
詳細解説
徳島県の北東部に位置する阿讃(あさん)山脈東南麓の,東西約7kmの範囲に展開する,弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて営まれた墳丘墓及び古墳から成る古墳群。
弥生時代終末期には,積石による墳丘を構築し埋葬施設が東西方向であるなど,四国東部の特徴が認められる。古墳時代前期前半でも,前方後円墳の可能性のあるものもあるが基本的に円墳であり,埋葬施設の構造は弥生時代終末期からの影響を受け継ぐ。ところが,古墳時代前期後半になると前方後円墳となり,円筒埴輪を巡らすなど畿内的要素が顕著となる。
本古墳群は東部瀬戸内地域において,在地性の強い墳丘墓に始まり古墳出現過程を示す重要な事例である。古墳出現後は畿内地域からの影響を受けて変容していく様相から,当該時期における政治状況を知る上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
鳴門板野古墳群(大代古墳 竪穴式石室)
鳴門板野古墳群(遠景)
鳴門板野古墳群(宝幢寺古墳 墳丘)
鳴門板野古墳群(天河別神社古墳群1号墳 竪穴式石室)
鳴門板野古墳群(萩原2号墓 埋葬施設)
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鳴門板野古墳群(大代古墳 竪穴式石室)
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鳴門板野古墳群(遠景)
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鳴門板野古墳群(宝幢寺古墳 墳丘)
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鳴門板野古墳群(天河別神社古墳群1号墳 竪穴式石室)
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鳴門板野古墳群(萩原2号墓 埋葬施設)
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解説文
徳島県の北東部に位置する阿讃(あさん)山脈東南麓の,東西約7kmの範囲に展開する,弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて営まれた墳丘墓及び古墳から成る古墳群。 弥生時代終末期には,積石による墳丘を構築し埋葬施設が東西方向であるなど,四国東部の特徴が認められる。古墳時代前期前半でも,前方後円墳の可能性のあるものもあるが基本的に円墳であり,埋葬施設の構造は弥生時代終末期からの影響を受け継ぐ。ところが,古墳時代前期後半になると前方後円墳となり,円筒埴輪を巡らすなど畿内的要素が顕著となる。 本古墳群は東部瀬戸内地域において,在地性の強い墳丘墓に始まり古墳出現過程を示す重要な事例である。古墳出現後は畿内地域からの影響を受けて変容していく様相から,当該時期における政治状況を知る上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
徳島県北東部に位置する阿讃(あさん)山脈東南麓の東西約11kmの範囲には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて墳丘墓及び古墳が営まれ、これらを鳴門板野古墳群と呼ぶ。 この古墳群については、昭和53年の県道建設計画の際に天河別神社(あまのかわけじんじゃ)古墳群周辺が、また、平成12年の四国横断自動車道建設計画の際に大代(おおしろ)古墳が、それぞれ重要であるとして道路計画を変更し現状保存の措置が図られた。鳴門市教育委員会及び徳島県教育委員会は、これらの古墳群の重要性に鑑み、平成17年度から古墳の範囲と内容を確認する発掘調査を実施してきた。今回指定するのは7基の墳丘墓及び古墳である。 本古墳群の築造は萩原(はぎわら)2号墓に始まる。この墓は直径21.2mの円丘部に長さ5.6mの突出部が取り付き、積石の高さは円丘部で約80cmである。埋葬施設は東西5.2m、南北4mで、東西を指向する墓坑に箱形木棺を設置し、それを木槨が覆い、さらにその外周に石積が施された積石木槨構造であったと考えられる。副葬品として破砕された舶載内行花文鏡片1点を確認し、土器等から築造時期は弥生時代終末期と考えられる。 天河別神社古墳群4号墳は直径20~25mの円墳と見られるが、これに長さ15~20mの前方部がつく前方後円墳である可能性もある。埋葬施設上部の構造は不明であるが、北東から南西方向に主軸をもつ粘土混りの礫敷きの床面を確認している。副葬品には鉄鏃・鉄槍・銅鏡片があり、築造時期は古墳時代前期前半と考えられる。 同2号墳は直径26mの円墳である。墳丘に葺石が伴うが埴輪は確認していない。墳頂部には南北主軸の長辺8m、短辺3mの墓坑内で、竪穴式石室の天井石を確認した。墳丘からは土師器が出土しており、その特徴から古墳時代前期前半の築造と考えられる。 同1号墳は直径25mの二段築成の円墳である。墳頂部には南北主軸の長辺8.2m、短辺5.3mの墓坑を設け、基底部には粘土に拳大以下の砂岩の円礫を混入した粘土混りの礫敷きを設け、その上部に粘土棺床を設置し結晶片岩の板石による竪穴式石室を構築した。石室は長辺5.0m、短辺1.1mで、外縁には砂岩礫による二重の石囲い施設を設けていた。副葬品は鉄剣2点、鉄斧1点、鉄製柄1点、刀子2点、珠文鏡(しゅもんきょう)1点であったが、埴輪は確認していない。副葬品の特徴などから、築造時期は古墳時代前期前半と考えられる。 同3号墳は後円部直径24m、前方部復元長17m、墳長41mの2段築成の前方後円墳である。墳丘には葺石が施され、土師器片1点が出土し、その特徴から古墳時代前期後半の築造と考えられる。 宝幢寺(ほうどうじ)古墳は後円部直径28m、前方部長19m、墳長47mの前方後円墳である。円筒埴輪及び朝顔形埴輪が出土しているが埋葬施設は確認していない。古墳の築造は古墳時代前期後半と考えられる。 大代古墳は墳長54m、後円部は長径45m、短径31m、前方部長23mの二段築成の前方後円墳である。墳丘には葺石を確認し、円筒埴輪及び家形・盾形埴輪が出土した。後円部頂には、長軸7.4m、短軸4.5mの南北主軸の墓坑に竪穴式石室が構築され、内部には火山(ひやま)産と推定される白色凝灰岩の刳抜式舟形石棺を検出した。副葬品には、鉄剣・鉄刀・鉄鉾・鉄鏃・短甲・銅鏃・鉄斧・刀子・滑石製臼玉・緑色凝灰岩製管玉・獣形鏡がある。出土遺物から古墳時代前期後半の築造と考えられる。 このように鳴門板野古墳群は、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて継続的に築造された。当初は、積石による墳丘を構築し埋葬施設が東西方向であるなど、四国東部の特徴が認められた。古墳時代前期前半でも、前方後円墳の可能性のあるものもあるが基本的に円墳で、埋葬施設の構造は弥生時代終末期からの影響を受け継ぐものであった。ところが、古墳時代前期後半になると円筒埴輪を巡らす前方後円墳となり畿内的要素が顕著となる。 以上のように、本古墳群は東部瀬戸内地域において弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて営まれた。これらは、在地性の強い墳丘墓に始まり古墳出現の過程を示す重要な事例である。さらに、古墳出現後は畿内地域からの影響を受けて変容していく様相から、当該時期における政治状況を知ることができるという点でも重要である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。