国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
土佐遍路道
竹林寺道
禅師峰寺道
清瀧寺境内
青龍寺道
観自在寺道
ふりがな
:
とさへんろみち
ちくりんじみち
ぜんじぶじみち
きよたきじけいだい
しょうりゅうじみち
かんじざいじみち
土佐遍路道(青龍寺道)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
16世紀~
年代
:
西暦
:
面積
:
4009.21 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
140
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2016.10.03(平成28.10.03)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
2021.10.11(令和3.10.11)
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡,六.交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設その他経済・生産活動に関する遺跡
所在都道府県
:
高知県
所在地(市区町村)
:
高知県土佐市・宿毛市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
土佐遍路道(青龍寺道)
解説文:
詳細解説
遍路道は空海(諡号(しごう)は弘法大師(こうぼうだいし))ゆかりの寺社を巡る全長1,400kmにも及ぶ霊場巡拝の道で,弘法大師の足跡を追体験する四国を一周する信仰の道である。指定にあたっては,阿波・土佐・伊予・讃岐の旧国名を冠し,それぞれの遍路道を呼称することとしている。土佐遍路道は,阿波最後の札所第23番札所薬王寺と第24番札所最御崎寺(ほつみさきじ)の間にある国境の宍喰(ししくい)峠から,土佐最後の札所第39番延光寺(えんこうじ)(高知県宿毛市)から第40番札所観自在寺(かんじざいじ)に向かう国境の松尾峠までの区間である。青龍寺道は第35番札所清瀧寺(きよたきじ)から第36番札所青龍寺に至る道の一部で,途中,塚地坂(つかじざか)を越える部分に旧状をとどめている。峠の展望台からは宇佐の集落や宇佐湾,青龍寺の山並みを望むことができる。塚地坂を南に下って沢と合流する付近の岩塊には丁石としての文字が刻まれ,それに尊像が添え彫りされている。また,坂を下りきった宇佐側の沿道には磨崖仏が存在し,その一部には高岡郡域の中世期の石仏の特徴が見出される。青龍寺境内に慶長6年(1601)の接待供養塔が存在することをふまえると,遍路が一般化する時期以前から信仰の道として利用されていたことが推測される。遺存状況が良好であり,土佐における遍路道の実態を考える上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
土佐遍路道(青龍寺道)
土佐遍路道(青龍寺道)
土佐遍路道(青龍寺道 峠からの遠景)
土佐遍路道(青龍寺道 石造物)
土佐遍路道(青龍寺道 石造物)
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土佐遍路道(青龍寺道)
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土佐遍路道(青龍寺道)
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土佐遍路道(青龍寺道 峠からの遠景)
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土佐遍路道(青龍寺道 石造物)
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土佐遍路道(青龍寺道 石造物)
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解説文
遍路道は空海(諡号(しごう)は弘法大師(こうぼうだいし))ゆかりの寺社を巡る全長1,400kmにも及ぶ霊場巡拝の道で,弘法大師の足跡を追体験する四国を一周する信仰の道である。指定にあたっては,阿波・土佐・伊予・讃岐の旧国名を冠し,それぞれの遍路道を呼称することとしている。土佐遍路道は,阿波最後の札所第23番札所薬王寺と第24番札所最御崎寺(ほつみさきじ)の間にある国境の宍喰(ししくい)峠から,土佐最後の札所第39番延光寺(えんこうじ)(高知県宿毛市)から第40番札所観自在寺(かんじざいじ)に向かう国境の松尾峠までの区間である。青龍寺道は第35番札所清瀧寺(きよたきじ)から第36番札所青龍寺に至る道の一部で,途中,塚地坂(つかじざか)を越える部分に旧状をとどめている。峠の展望台からは宇佐の集落や宇佐湾,青龍寺の山並みを望むことができる。塚地坂を南に下って沢と合流する付近の岩塊には丁石としての文字が刻まれ,それに尊像が添え彫りされている。また,坂を下りきった宇佐側の沿道には磨崖仏が存在し,その一部には高岡郡域の中世期の石仏の特徴が見出される。青龍寺境内に慶長6年(1601)の接待供養塔が存在することをふまえると,遍路が一般化する時期以前から信仰の道として利用されていたことが推測される。遺存状況が良好であり,土佐における遍路道の実態を考える上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
遍路道は空海(諡号は弘法大師)ゆかりの寺社を巡る全長1400kmにも及ぶ霊場巡拝の道で、弘法大師の足跡を追体験する四国を一周する信仰の道とされ、西国巡礼と並ぶ代表的な巡礼道の一つである。便宜的に阿波・土佐・伊予・讃岐の旧国名を冠し、それぞれの遍路道を呼称することとしている。遍路の始まりは、第49番札所浄土寺(愛媛県松山市)本尊の厨子にみえる、大永7年(1527)の年号を有する「辺路同行五人 阿州名東住人」の墨書や、第30番札所土佐一宮(現在の札所は隣接する善楽寺)の元亀2年(1571)の年号を有する「四国中辺路身共只一人、城州之住人藤原富光是也」の墨書などから、少なくとも16世紀には遍路という行為の存在を確認でき、四国内や他国から遍路が訪れていることがわかる。寺番を付した八十八箇所の初見は、大坂在住の僧真念によって著された『四国遍路道指南(みちしるべ)』(貞享4年〈1687〉版行)である。真念は遍路屋の設置や道標の建立を行い、以後、武田徳右衛門(―1814)や中務茂兵衛(なかつかさもへえ)(1845―1922)らにより道標の整備が進められた。江戸時代後期には、実際に遍路を経験した人々の道中日記や納経帳などにより、当時の札所の様子や遍路の動向が知られるようになる。 土佐の遍路道は、阿波最後の札所第23番札所薬王寺と第24番札所最御崎寺(ほつみさきじ)の間にある国境の宍喰(ししくい)峠から、土佐最後の札所第39番延光寺(高知県宿毛市)から第40番札所観自在寺に向かう国境の松尾峠までの区間である。 青龍寺道は第35番札所清瀧寺(きよたきじ)から第36番札所青龍寺に至る道で、途中、塚地坂(つかじざか)を越える部分に旧状をとどめている。道は北の高岡と南の宇佐の港を結ぶが、明治34年に新道ができ、平成10年に塚地坂トンネルが完成して交通の中心は後者に移った。しかしながら、往時の景観が残され、最短で札所を結ぶことから現在も遍路の道として利用されている道である。土佐遍路道については高知県教育委員会が平成19年度から3年間にわたって調査を実施し、道筋の把握と現状について全容の把握を行った。さらに、土佐市及び土佐市教育委員会は平成26・27年度に遺存状況の良好な青龍寺道について測量調査や石造物調査を実施し、道脇に点在する遍路墓や道標、丁石の存在を詳細に確認した。峠の展望台からは宇佐の集落や宇佐湾、青龍寺の山並みを望むことができる。塚地坂を南に下って沢と合流する付近の岩塊には丁石としての文字が刻まれ、それに尊像が添え彫りされている。また、坂を下りきった宇佐側の沿道には磨崖仏が存在し、その一部には高岡郡域の中世期の石仏の特徴が見出される。青龍寺境内に慶長6年(1601)の接待供養塔が存在することをふまえると、遍路が一般化する時期以前から信仰の道として利用されていたことが推測される。 遍路道は、広範囲にまたがる回遊式の巡礼道であり、民間に広く普及した信仰の道として貴重である。土佐遍路道青龍寺道は遺存状況が良好であり、土佐における遍路道の実態を考える上で重要であることから、史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。 令和3年 追加指定・名称変更 遍路道は、空海(諡号は弘法大師)ゆかりの寺社である四国八十八箇所霊場をめぐる霊場巡拝の道である。その距離は、約1、400kmに及び、徳島・高知・愛媛・香川の四国4県にまたがる。既に16世紀代には遍路という行為の存在を確認でき、四国内や他国から遍路が訪れていることがわかる。八十八箇所の寺番を付した初見は、僧真念著『四国(しこく)辺路(へんろ)道(みち)指南(しるべ)』(貞享(じょうきょう)4年<1687>)である。江戸時代後期には、実際に遍路を経験した人々の「道中日記」や「納経帳」等から、当時の札所の様子や遍路の動向が知られる。遍路道は、我が国を代表する霊場巡拝信仰に関わる遺跡として重要なことから、平成22年、徳島県域の遍路道のうち条件の整った箇所について、便宜的に旧国名を冠して阿波遍路道として指定したのを皮切りに、平成25年に香川県域分を讃岐遍路道として、平成28年には高知県域分を土佐遍路道として、また愛媛県域分を伊予遍路道として史跡に指定し、保護を図っているところである。 このうち土佐遍路道は、阿波最後の札所第二十三番札所薬王寺(やくおうじ)と第二十四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)(室戸市)の間にある国境の宍喰(ししくい)峠から、土佐最後の札所第三十九番延光寺(えんこうじ)(宿毛市)から第四十番札所観自在寺(かんじざいじ)に向かう国境の松尾(まつお)峠(とうげ)まで、延長約400kmに及ぶ道筋である。平成28年、第三十五番札所清瀧寺(きよたきじ)から第三十六番札所青龍寺(しょうりゅうじ)に至る青龍寺道のうち、旧状をよくとどめる塚地坂(つかじざか)の部分を指定し、令和3年には竹林寺(ちくりんじ)道・禅師峰寺(ぜんじぶじ)道を追加指定し、保護を図ったところである。 今回、追加指定しようとするのは、第三十五番札所醫王山(いおうざん)鏡智院(きょうちいん)清瀧寺(きよたきじ)(高知県土佐市)と、第三十九番札所延光寺(えんこうじ)(宿毛市)から国境の松尾(まつお)峠(とうげ)を越えて第四十番札所観自在寺(かんじざいじ)(愛媛県南宇和郡愛南町)に向かう観自在寺道(宿毛市)である。 清瀧寺は、土佐市北部の清滝山(標高378m)中腹に所在する。奈良時代に僧行基が開創し(『南路志(なんろし)』<文化12年 1815>)、平安時代初めに弘法大師が当地を訪れ、山号や院号、寺名を改め霊場としたと伝える(『皆山集』)。清瀧寺の名前が史料に明確に現れるのは、天正15年(1587)より土佐国内で実施された検地の記録(『長宗我部(ちょうそかべ)地検帳(ちけんちょう)』)である。江戸時代には土佐藩の庇護をうけ、慶安4年(1651)には仁王門と本堂が建立された。しかし、寛文8年(1668)火災に遭い、堂宇・什物を失ったとされる。寂本『四国(しこく)徧礼(へんろ)霊場記(れいじょうき)』(元禄2年<1689>)には本堂・大師堂・弁財天・真如墓が描かれ、この頃には堂宇も再建されたと思われ、寛政12年(1800)の『四国(しこく)徧礼(へんろ)名所(めいしょ)図会(ずえ)』(以下、『図会』と略す)では、本堂、御影堂、鎮守社、真如親王墳、護摩堂、方丈、仁王門が見える。幕末、清滝山の山腹一帯に四国霊場を模した石造仏を配し、村四国として信仰を受けたという。真如墓は、真如(高岳(たかおか)親王)が入唐に際して清瀧寺に仮寓した時、造墓を命じたとの伝承に関わるものである。明治維新の廃仏毀釈で寺運は一時衰微したが、明治13年(1880)再興し、現在に至っている。 現在、境内は、山門から石段を登ると、正面に向かって右に本堂(明治15年<1882>)、左に大師堂(大正12年<1923>)、両堂宇に挟まれた中央部に護摩堂(昭和60年<1985>頃)が横一直線に並んで配置されている。本堂の東側には石垣で造成された一段高い平場に琴平神社(社殿は棟札銘から天保2年<1831>)が鎮座する。客殿は、建立年代は不祥であるが、『図会』に描かれたような南北に長い建物であり、昭和期には遍路宿としても機能した。本堂前の道路を挟んだ丘陵は不入山(いらずやま)と呼ばれる禁足地で、その頂部に高岳親王(真如)の逆修塔との伝承を有する五輪塔(高知県指定史跡)が建つ。客殿南側の庫裡内平坦部には礎石と基壇状の石列が露出しており、平成28年度に高知県教育委員会が清瀧寺の総合調査の一環として発掘調査した結果、礎石は南北2間、東西が正面3間、背面2間の基壇を持つ建物の基礎であることが判明した。『図会』にみえる護摩堂に関わる遺構と考えられる。 清瀧寺に残る江戸期の建物としては琴平神社社殿があり、本堂・大師堂については近代以降のものであるが、近世の景観を踏襲する形で再建され、現在に至っている。『図会』には清瀧寺の山門から参道そして本堂と大師堂を中心とする江戸時代後期の景観が描かれているが、現在もそれらの配置には大きな変更がなく、歴史的景観を保っている。 次に、土佐最後の札所延光寺から土佐・伊予国境の松尾峠(松尾坂とも。最高標高約310m)を越えて観自在寺に向かう観自在寺道は、古くから両国を結ぶ宿毛街道として利用された道である。既に平成30年、県境の国境標石が建つ地点から北側の愛媛県愛南町域について、伊予遍路道の観自在寺道として保護を図っている。今回、松尾峠の麓から既指定箇所の県境に至る、宿毛市域の良好に遺存している観自在寺道(約800m分)を指定しようとするものである。江戸時代、土佐藩では領内の遍路の出入国を阿波堺の甲浦(かんのうら)と伊予堺の宿毛に限っており、それぞれ番所を設置して監視していた。沿道には松並木があったことが、江戸時代後期の『図会』の描写からわかる。宿毛市教育委員会では、令和2年に観自在寺道の測量調査、発掘調査を実施し、路面の石畳や石垣、法面の盛土構築の状況を確認した。 このように、清瀧寺と観自在寺道は、遍路信仰を理解する上で重要であることから、史跡に追加指定するとともに、その名称を「土佐遍路道 竹林寺道 禅師峰寺道 清瀧寺境内 青龍寺道 観自在寺道」に変更し、保護の万全を図るものである。