国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
船原古墳
ふりがな
:
ふなばるこふん
船原古墳(近景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
6世紀末~7世紀初頭
年代
:
西暦
:
面積
:
4409.62 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
140
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2016.10.03(平成28.10.03)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
福岡県
所在地(市区町村)
:
福岡県古賀市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
船原古墳(近景)
解説文:
詳細解説
現存長37.4mの6世紀末から7世紀初頭に属する横穴式石室を有する前方後円墳である。横穴式石室の開口部の延長線上に密集する7基の土坑群には馬具・武具・武器・農工具・須恵器などの多量の遺物が埋納されるが,そのうち逆L字状の平面形を呈する1号土坑からは,馬冑(ばちゅう)をはじめとした朝鮮半島系の金銅製の馬具が豊富で,武具・武器とともに総数500点以上の遺物が一部は箱に収納して埋納されていたと考えられる。これら埋納土坑群から出土する土器は,古墳の周溝から出土する土器と接合することから,埋納土坑群は古墳に確実に伴うものであり,当該期の葬送儀礼の実態解明に繋がる可能性が高い。また当該期は,九州北部で前方後円墳が終焉する時期であることから前方後円墳の終焉状況を考える上でも重要であり,さらに,これまで空白地帯とされてきた宗像(むなかた)地域と福岡平野の中間地帯である当該地において,朝鮮半島や大和政権との関係性を有する前方後円墳が出現する意義も含め,この古墳は日本列島の当該期の政治状況や社会を考える上で極めて重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
船原古墳(近景)
船原古墳(石室羨道)
船原古墳(1号土坑 遺物検出状況)
船原古墳(石室出土遺物)
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船原古墳(近景)
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船原古墳(石室羨道)
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船原古墳(1号土坑 遺物検出状況)
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船原古墳(石室出土遺物)
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解説文
現存長37.4mの6世紀末から7世紀初頭に属する横穴式石室を有する前方後円墳である。横穴式石室の開口部の延長線上に密集する7基の土坑群には馬具・武具・武器・農工具・須恵器などの多量の遺物が埋納されるが,そのうち逆L字状の平面形を呈する1号土坑からは,馬冑(ばちゅう)をはじめとした朝鮮半島系の金銅製の馬具が豊富で,武具・武器とともに総数500点以上の遺物が一部は箱に収納して埋納されていたと考えられる。これら埋納土坑群から出土する土器は,古墳の周溝から出土する土器と接合することから,埋納土坑群は古墳に確実に伴うものであり,当該期の葬送儀礼の実態解明に繋がる可能性が高い。また当該期は,九州北部で前方後円墳が終焉する時期であることから前方後円墳の終焉状況を考える上でも重要であり,さらに,これまで空白地帯とされてきた宗像(むなかた)地域と福岡平野の中間地帯である当該地において,朝鮮半島や大和政権との関係性を有する前方後円墳が出現する意義も含め,この古墳は日本列島の当該期の政治状況や社会を考える上で極めて重要である。
詳細解説▶
詳細解説
船原古墳は、犬鳴山地から北西方向に派生する丘陵の裾からさらに伸びる細い舌状丘陵の標高40mの先端部に立地し、馬具・武具・武器等を大量に埋納した土坑群を伴う古墳時代後期の前方後円墳である。 この古墳は、平成8年度の農地改良工事に伴い発掘調査が実施され、全長5.9m、正方形の玄室幅2.0m、玄室天井高2.6m、羨道部幅0.8mの複室構造の横穴式石室を埋葬主体とする直径25m程度の円墳として当初は認識されていた。石室からは異形金銅製品や耳環が、墳裾や周溝からは土師器や須恵器が比較的まとまって出土したことや、古賀市域ではこれまで直径20mを超す古墳が存在していなかったことから、古賀市ではこの古墳を公有化して保存を図った。なお、この古墳については、平成27年度の再調査により、現存長37.4m、後円部径24.8mの前方後円墳であり、後円部の南東側には幅4.4m、深さ0.9mの周溝が存在することが判明している。 その後、平成24年度からは、この古墳の周辺において行われた圃場整備事業に伴い古墳の南側一帯、標高36mの低地部分の発掘調査を実施したところ、古墳の横穴式石室の開口部の延長線上、すなわち南西側5~7mの地点に古墳時代の土坑を7基確認した。このうち平面プランが逆L字状の長さ5.3m、幅0.8~2.3m、深さ0.8mの1号土坑からは、馬冑(ばちゅう)・忍冬唐草文心葉形鏡板付轡(にんどうからくさもんしんようがたかがみいたつきくつわ)・金銅製歩揺付飾金具(ほようつきかざりかなぐ)・金銅製雲珠(うず)・金銅製杏葉(ぎょうよう)・蛇行状(だこうじょう)鉄器等の馬具、木製漆塗飾弓・鉄鏃等の武器、挂甲(けいこう)等の武具、鉄製鎌・鉄製鋤先・鉄斧等の農工具等、総数500点以上の遺物が、一部箱に収納して埋納されたと考えられる状態で出土した。これらは全国的にみても、当該期の遺物としては質・量ともに傑出した内容であり、特に、馬具には朝鮮半島との密接な関係を示す遺物も多い。 この他に、2号土坑からは上層では大型須恵器甕と下層では環状鏡板付轡等の鉄器類が、3号土坑からは3束の鉄鏃群が、4~7号土坑からは須恵器が出土した。このうち2・4・5号土坑から出土した須恵器と、古墳の墳丘や周溝から出土した須恵器とが接合することから、これら土坑群が古墳と同時期に属することが判明した。なお、7号土坑については遺構検出後にレーダー探査を行った結果、現地表下50~70cmの部位から金属反応があった。年代については、須恵器や馬具といった出土遺物や横穴式石室の正方形を呈する玄室構造などから、6世紀末~7世紀初頭に属すると考えられる。 九州北部では、6世紀末~7世紀初頭にかけて前方後円墳が終焉を迎え、この古墳も玄界灘沿岸部では最終末の前方後円墳と位置づけることができる。また、当該地は宗像地域と福岡平野の中間地帯にあたり、この古墳が出現するまでは前方後円墳や大型円墳は存在しなかったが、6世紀末以降は重要な地域になったと考えられる。このことは、朝鮮半島からもたらされた遺物をはじめ各種遺物を多量に保有することからも明らかであり、当該期の外交や対外交流だけでなく大和政権との関係性を考える上でも極めて重要な古墳といえる。さらに、横穴式石室の開口部の延長線上に密集する埋納土坑群の存在については、そもそも古墳に確実に伴う墳丘外の遺物埋納土坑の事例がなく、当時の古墳の機能や葬送儀礼の在り方を復元する上でも貴重な情報を提供している。 このように船原古墳は、6世紀末~7世紀初頭の九州北部における前方後円墳の終焉状況、当該地における朝鮮半島や大和政権との関係性、葬送儀礼の実態解明など、日本列島の当該期の政治状況や社会を考える上で極めて重要である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。