国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
長崎原爆遺跡
ふりがな
:
ながさきげんばくいせき
長崎原爆遺跡(爆心地)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
昭和20年(1945)
年代
:
西暦
:
面積
:
11457.46 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
140
特別区分
:
特別以外
指定年月日
:
2016.10.03(平成28.10.03)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
長崎県
所在地(市区町村)
:
長崎県長崎市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
長崎原爆遺跡(爆心地)
解説文:
詳細解説
第二次世界大戦の末期である昭和20年(1945)8月9日に長崎に米軍により投下された原子爆弾(以下,原爆と略す)の被害を伝える遺跡である。原爆により,長崎市街は南北約5km,東西約2kmの範囲で地上の構造物は全壊または全焼し,同年中に約7万4千人が死亡したと言われている。原爆が炸裂した空中点の直下である爆心地は,昭和23年(1948)に初代平和宣言の舞台となり,その後爆心地公園となっており,原爆による被害を受けた地層が厚く堆積している。旧城山(しろやま)国民学校校舎は,鉄筋コンクリート造3階建てで,被爆による高熱火災の痕跡や原爆の衝撃波によるものと考えられる亀裂が見つかっている。浦上(うらかみ)天主堂旧鐘楼は,大正14年(1925)完成の天主堂の塔の上にあったもので,被爆により天主堂北側の崖下の小川まで滑落し,現在まで位置を留めている。旧長崎医科大学門柱は,被爆により9cmずれ,傾いたまま立っている。山王神社二の鳥居は,爆心地方向の柱は爆風によって倒れたが,反対側の柱は,一本柱になったまま自立している。以上のように,長崎原爆遺跡は第二次世界大戦末期における原爆投下の歴史的事実,核兵器の被害や戦争の悲惨さを如実に伝える遺跡である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
長崎原爆遺跡(爆心地)
長崎原爆遺跡(旧城山国民学校校舎)
長崎原爆遺跡(浦上天主堂旧鐘楼)
長崎原爆遺跡(旧長﨑医科大学門柱)
長崎原爆遺跡(山王神社二の鳥居)
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長崎原爆遺跡(爆心地)
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長崎原爆遺跡(旧城山国民学校校舎)
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長崎原爆遺跡(浦上天主堂旧鐘楼)
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長崎原爆遺跡(旧長﨑医科大学門柱)
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長崎原爆遺跡(山王神社二の鳥居)
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解説文
第二次世界大戦の末期である昭和20年(1945)8月9日に長崎に米軍により投下された原子爆弾(以下,原爆と略す)の被害を伝える遺跡である。原爆により,長崎市街は南北約5km,東西約2kmの範囲で地上の構造物は全壊または全焼し,同年中に約7万4千人が死亡したと言われている。原爆が炸裂した空中点の直下である爆心地は,昭和23年(1948)に初代平和宣言の舞台となり,その後爆心地公園となっており,原爆による被害を受けた地層が厚く堆積している。旧城山(しろやま)国民学校校舎は,鉄筋コンクリート造3階建てで,被爆による高熱火災の痕跡や原爆の衝撃波によるものと考えられる亀裂が見つかっている。浦上(うらかみ)天主堂旧鐘楼は,大正14年(1925)完成の天主堂の塔の上にあったもので,被爆により天主堂北側の崖下の小川まで滑落し,現在まで位置を留めている。旧長崎医科大学門柱は,被爆により9cmずれ,傾いたまま立っている。山王神社二の鳥居は,爆心地方向の柱は爆風によって倒れたが,反対側の柱は,一本柱になったまま自立している。以上のように,長崎原爆遺跡は第二次世界大戦末期における原爆投下の歴史的事実,核兵器の被害や戦争の悲惨さを如実に伝える遺跡である。
詳細解説▶
詳細解説
長崎原爆遺跡は、第二次世界大戦の末期である昭和20年(1945)年8月9日に長崎に投下された原子爆弾の被害を伝える遺跡である。爆心地、旧城山(しろやま)国民学校校舎、浦上(うらかみ)天主堂旧鐘楼、旧長崎医科大学門柱、山王(さんのう)神社二の鳥居から成る。 第二次世界大戦は、昭和14年(1939)ヨーロッパで始まった。日本は、日中戦争開始に伴い中国大陸に軍を進めていたが、昭和16年(1941)12月にハワイの真珠湾を攻撃しいわゆる太平洋戦争が開始された。日本はその後の半年間は東南アジアや南太平洋に戦域を拡大したが、昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦での敗戦を転機として戦局が変わり、昭和19年(1944)秋から本土空襲が激化した。翌20年4月にアメリカ軍が沖縄本島に上陸し、日本の敗色は必至となり、7月にはポツダム宣言が発表された。アメリカは8月6日に広島に原子爆弾(以下原爆と略す)を投下し、ソ連は8月8日に宣戦布告を行って、それが9日未明に日本に伝えられた。9日午前、戦争終結に向けてポツダム宣言をどのように受諾するかについての会議が宮中で行われていたが、その最中に長崎に原爆が投下された。その後、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終結した。 昭和20年8月9日、北マリアナ諸島のテニアン島を立った米軍B29ボックスカー号は、第一目標であった小倉に向かったが、煙ともやに包まれ、目視による投下は不可能だったため、第二目標であった長崎に向かった。午前11時2分、長崎市浦上地区の松山町の上空約500mで、ボックスカー号から投下された原爆が炸裂し、長崎市街は南北約5㎞、東西約2㎞の範囲で地上の構造物は全壊または全焼した。原爆による被害は、爆風、熱線、放射線が挙げられ、同年中に約7万4千人が死亡したと言われている。 原爆が炸裂した空中点の直下である爆心地の正確な位置は、被爆直後より研究が行われてきており、松山町(まつやままち)とされてきた。被爆時は、熱線は3,000~4,000度、爆風は毎秒440mで吹いたと推定されている。その場所は昭和23年(1948)に初代平和宣言の舞台となり、その後爆心地公園とされて市民の慰霊の場及び平和発信の場となっている。また、平成8年に公園の再整備中に被爆当時の地層の一部が露出し、長崎大学の長岡信治によって調査が行われ、多量の瓦片や炭化木片、ヒトと考えられる骨片が検出された。さらに、平成27年に長崎市により調査が行われ、南へ傾斜した地形に原爆による被害を受けた地層が厚く堆積していることが分かり、この付近が住宅の多く立ち並ぶ場所であったことを示している。 爆心地から西へ約500mの位置にあった城山国民学校は、大正12年(1923)に城山尋常小学校として開校し、昭和12年(1937)には鉄筋コンクリート造3階建ての新校舎が完成した。昭和16年(1941)に、国民学校令により城山国民学校となった。原爆により南側・北側の両校舎の内部は破壊され、北側校舎の2・3階は全焼し外形のみが残った。南側校舎はかろうじて外形が残っていたが、9月の大雨で東端が崩壊した。空襲を避けるため学校での授業を停止していたため、被爆当時に児童は校舎にいなかったが、推定在籍児童数約1500人のうち、自宅等で死亡した児童は約1400人といわれている。当時、城山国民学校には三菱兵器製作所の給与課が疎開しており、校舎にいたのはその給与課の職員など158人で、そのうち138人が死亡した。その後校舎は北校舎と南校舎の1・2階の修復が行われ昭和50年過ぎまで校舎として使用されていたが、老朽化が進んだため昭和55年から59年にかけて大部分が解体された。北側校舎のうちの階段棟は現存しており、現在は城山小学校平和祈念館として公開されている。ここには、内装を設置するため駆体コンクリートに埋め込まれていた木レンガが焼損したまま残っており、また、平成27年度に長崎市によって行われた調査により、校舎のコンクリートが熱を受けていることが確認され、高熱火災による被害を示している。さらに、発掘調査によって、昭和50年代に解体された北側校舎北端部分の基礎を検出し、原爆の衝撃波によるものと考えられる亀裂を検出した。 爆心地から北東へ約500mの位置にある浦上天主堂の歴史は、キリスト教の信徒が江戸末期の浦上四番崩れによって全国に配流された後、浦上に帰還した信徒によって、明治12年(1879)に建設された小聖堂に始まる。被爆前の建物は大正3年(1914)に献堂され、その後大正14年(1925)には、さらに双塔も完成した。これらは石材及びレンガで建てられた。原爆により、天主堂はわずかな堂壁を残して倒壊し、当日天主堂内にいた2人の神父と数十人の信徒は天主堂の下敷きとなり死亡した。天主堂の双塔であった鐘楼ドームは、南側のものは天主堂内に落下し、北側のものは被爆直後外形を留めていたが、9日夜天主堂北側の崖下の小川まで滑落したと考えられている。この鐘楼は、鉄筋コンクリート製で直径5.5m、推定50tと言われている。なお、被爆した天主堂は昭和33年に解体され、現在の天主堂は翌昭和34年に再建されたものである。平成26・27年度に行われた長崎市による調査で、旧鐘楼付近に埋設されているレンガの自然科学分析が行われ、火災によるものと推察される変質が確認された。また、昭和25年(1950)に旧鐘楼が小川の流路変更に伴って天主堂の石垣の中に埋設されたが、その際に天主堂の瓦礫が一緒に埋められて現在の姿になっていることや、旧鐘楼が川床付近まで埋没しており、被爆直後から位置が変わっていないことが明らかとなった。 旧長崎医科大学門柱は爆心地の南東約700mの位置にある。現在の長崎大学の前身である第五高等中学校医学部が現在地に移転したのは明治24年(1891)で、被爆時には長崎医科大学、附属医学専門部、附属薬学専門部があった。建築物76棟のうち65棟が木造建築で、ほとんどの建物は爆風により倒壊し、その後の火災で焼失した。学長以下、教職員、学生など約900名が死亡した。2本の石製の門柱のうち、正面向かって左側の門柱には「長﨑醫科大學」の銘があり、正面向かって右側の門柱には「長﨑醫科大學附屬藥學専門部」の銘がある。門柱は昭和11年(1936)に発行された絵はがきにその存在を確認できる。門柱は双方とも平面が1.2m四方、高さ2.1mである。長崎医科大学銘の門柱は、原爆により9cmずれ、台座との間に最大で16cmの隙間ができた反面、附属薬学専門部銘の門柱は長崎医科大学敷地の台地の崖下にあったため、爆風の影響が多少減じたものと思われ、現在も直立している。また、長﨑醫科大學銘の門柱は、爆風圧の推定に用いられている。平成27年の長崎市による調査で、傾いた門柱は、芯となる部分が無筋コンクリートで、この芯部が傾斜した際に凸状に割裂した基壇部中央の充填コンクリートに乗り上げた状態であることが確認された。 爆心地から南東約800mに位置する山王神社は、原爆被爆の際、社殿は倒壊し社務所も全焼した。宮司は出征中で妻子は防空壕に避難していたため、一家は全員無事であった。山王神社二の鳥居は大正13年(1924)に神社が参道を新設する際設置されたもので、被爆の際に、爆心地方向の柱は爆風によって倒れたが、反対側の柱は、爆風圧により笠木が約5cm横にねじ曲がり、一本柱になったまま自立している。鳥居の柱には奉納者の名前が刻まれているが、爆心方向の面には熱線の影響と思われる剥離等が見られ、爆心と反対側の文字は現在でもはっきりと確認できる。倒れた方の柱の基礎は同じ場所に現存し、倒れた柱自体も近くの参道の脇に置かれている。また、二の鳥居の前後の参道も被爆当時の状況を良好に残している。 長崎市では平成8年に被爆建造物等の悉皆調査を実施し、原爆遺跡の保存を行ってきた。また、平成20年には爆心地を含む平和公園が登録記念物(名勝地関係)に登録されるとともに、平成25年には、被爆建造物等の悉皆調査がされたものの中から被爆の痕跡を顕著に示す旧城山国民学校校舎、浦上天主堂旧鐘楼、旧長崎医科大学門柱、山王神社二の鳥居がそれぞれ登録記念物(遺跡関係)に登録されている。その後の長崎市の調査により、登録された遺跡の周囲も保護を要することが分かった。 以上のように、長崎原爆遺跡は第二次世界大戦末期における原爆投下の歴史的事実と広島に続いて人類史上二度目に使用された核兵器の被害、戦争の非情さを如実に伝える遺跡である。また、近年被爆者の平均年齢が80歳を超え、被爆の歴史を語り継ぐ困難に直面している現在においては、物的な証拠としての貴重さが増していると考えられる。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。