国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
米子瀑布群
ふりがな
:
よなこばくふぐん
米子瀑布群
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種別1
:
名勝
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
585971.05 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
141
特別区分
:
指定年月日
:
2016.10.03(平成28.10.03)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
六.峡谷、爆布、漢流、深淵,十一.展望地点
所在都道府県
:
長野県
所在地(市区町村)
:
長野県須坂市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
米子瀑布群
解説文:
詳細解説
長野県北東部を流れる千曲川(ちくまがわ)水系の米子川(よなこがわ)の上流,標高約1,600m付近に位置する。米子川上流部には比高100mほどの岩壁が約1kmにわたって続き,その岩壁及び周辺部を,権現滝(ごんげんだき),不動滝(ふどうだき)等,十数条の滝が流れ落ちる。そのうち,常時水を落とす滝は10条ほどで,そのほかに,普段落水はないものの,多くの降水量がある時に流れ落ちる滝が数条存在する。
瀑布群の中心的な滝である権現滝は,約80mの落差で,直線的に落ちる。権現滝同様瀑布群の中心となる不動滝は,約85mの落差で,滝口から落ちた水は下部で霧状になり,夏至の前後にはこの霧状の部分に朝日が差し込み,虹が出る。
米子瀑布群,とりわけ権現滝及び不動滝は,近世中期までは信仰の対象として捉えられ,近世後期以降はそこに景勝地としての評価を付加しつつ,現在までその姿を伝える。特徴的な地形及び地質によって独特の風致景観が形成されており,その観賞上の価値及び学術上の価値は高く,重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
米子瀑布群
米子瀑布群(不動滝)
米子瀑布群(権現滝)
米子瀑布群(黒滝)
写真一覧
米子瀑布群
写真一覧
米子瀑布群(不動滝)
写真一覧
米子瀑布群(権現滝)
写真一覧
米子瀑布群(黒滝)
解説文
長野県北東部を流れる千曲川(ちくまがわ)水系の米子川(よなこがわ)の上流,標高約1,600m付近に位置する。米子川上流部には比高100mほどの岩壁が約1kmにわたって続き,その岩壁及び周辺部を,権現滝(ごんげんだき),不動滝(ふどうだき)等,十数条の滝が流れ落ちる。そのうち,常時水を落とす滝は10条ほどで,そのほかに,普段落水はないものの,多くの降水量がある時に流れ落ちる滝が数条存在する。 瀑布群の中心的な滝である権現滝は,約80mの落差で,直線的に落ちる。権現滝同様瀑布群の中心となる不動滝は,約85mの落差で,滝口から落ちた水は下部で霧状になり,夏至の前後にはこの霧状の部分に朝日が差し込み,虹が出る。 米子瀑布群,とりわけ権現滝及び不動滝は,近世中期までは信仰の対象として捉えられ,近世後期以降はそこに景勝地としての評価を付加しつつ,現在までその姿を伝える。特徴的な地形及び地質によって独特の風致景観が形成されており,その観賞上の価値及び学術上の価値は高く,重要である。
詳細解説▶
詳細解説
米子瀑布群は、長野県北東部を流れる千曲川水系の米子川(よなこがわ)の上流、標高約1,600m付近に位置する。米子川上流部には比高100mほどの岩壁が約1kmにわたって続き、その岩壁及び周辺部を、権現滝(ごんげんだき)、不動滝(ふどうだき)等、十数条の滝が流れ落ちる。 米子川を遡ると、根子岳(ねこだけ)(標高2,207m)、四阿山(あずまやさん)(同2,354m)等から成る四阿火山のカルデラに至り、カルデラ内には米子川の源流である不動沢、権現沢、大黒沢等の谷が山頂付近まで伸びる。これらの沢がカルデラから流れ出る付近に形成されているのが、約1kmにわたり連続する、比高100mほどの断崖絶壁である。米子瀑布群は、その断崖及び周辺部分を流れ落ちる十数条の滝から構成される。そのうち、常時水を落とす滝は十条ほどで、そのほかに、普段落水はないものの、多くの降水量のある時に流れ落ちる滝が数条存在する。 瀑布群の中心的な滝である権現滝は、かつては千手滝(せんじゅたき)とも呼ばれた。落差は約82.2mで、直線的に落ちる。不動滝は、権現滝同様瀑布群の中心となる滝であり、約85.4mの落差である。滝口から落ちた水は下部で霧状になり、夏至の前後にはこの霧状の部分に朝日が差し込み、虹が出る。不動滝に隣接する黒滝(くろだき)は、普段は岩肌が濡れて黒っぽく見える程度の流量しかないが、降雨時にははっきりと落水を確認することができる。 四阿山の山頂付近では、13~16世紀の陶器類、奉賽(ほうさい)用の刀を含む金属類が採集されており、また、14世紀半ばの成立と考えられている『神道集』に「阿妻屋嶽」の名前が現れることから、中世には信仰の対象となっていたことがわかる。慶長16年(1611)の奥書のある『四阿山略縁起』所収の「四阿山内名所」には、「御裏ニ権現瀧不動瀧 天地百有余丈 是ヲ白山権現ノ御手洗ト云。此瀧下ニテ諸人信仰シテ無病ヲ祈ル。」とあり、近世には白山信仰と米子の瀑布群が密接な関係を持っていた様子がうかがえる。 また、権現滝及び不動滝の東方向には、米子瀧山不動寺(よなこたきざんふどうじ)奥之院本堂が建つ。米子瀧山不動寺は、真言宗豊山(ぶざん)派の寺院で、正式名称を米子不動尊本坊米子瀧山威徳院不動寺(いとくいんふどうじ)と言う。本尊の不動明王立像は、第四次川中島合戦の帰路に上杉謙信が祀ったと伝わる。現在の奥之院本堂は19世紀に再建されたものであるが、そこから不動滝へと道が通じ、その道沿いには小さな祠・石造物等が30ほど建つ。米子瀧山不動寺では、権現滝及び不動滝を「御瀧(みたき)」として崇拝の対象としており、現在でも不動滝は行者が滝行を行う場になっている。さらに、米子瀧山不動寺奥之院本堂の北側には、峡谷を挟んで奇妙山平(きみょうざんだいら)が存在する。17世紀初めにここで木喰上人但唱(たんしょう)が修行を行ったと伝わっており、直径約6m、高さ約3.3mの「浮島」と呼ばれる巨石、不動明王の石仏等が残る。「浮島」からは、南側正面に権現滝及び不動滝を望むことができ、この場所が特別な意味を持っていたことがうかがえる。 中世から江戸時代中期までは、米子瀑布群、とりわけ権現滝及び不動滝は、信仰の対象としてのみ捉えられていたと推察されるが、江戸時代後期以降は景勝地としての評価も見られるようなる。天保5年(1834)脱稿の『信濃奇勝録』では、不動滝及び権現滝の挿絵が実景に基づいて描かれ、本文中でも立地・地形・滝の落差・水の落ちる様子等が詳細に説明されている。また、明治10年(1877)頃にまとめられた『長野縣町村誌』には、米子村の「名勝」として「不動瀑布」及び「権現瀑布」が記載されており、そのほかにも、明治33年(1900)刊行の『信濃寶鑑』には、権現滝等の落差及び落水の様子が詳述されている。明治から昭和中頃にかけて、周縁部で行われた鉱山開発等の影響により崩壊し、落差が小さくなったと言われる大黒滝(だいこくだき)のような例はあるものの、瀑布群の景観及び中世以来の霊場としての環境は概ね今日まで維持されている。 以上のように、米子瀑布群は、近世中期までは信仰の対象として、近世後期以降はそこに景勝地としての評価を付加しつつ、現在までその姿を伝える。特徴的な地形及び地質によって独特の風致景観が形成されており、その観賞上の価値及び学術上の価値は高く、名勝に指定し、保護を図ろうとするものである。