国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
山王坊遺跡
ふりがな
:
さんのうぼういせき
山王坊遺跡(日吉神社境内)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
14世紀中頃~15世紀中頃
年代
:
西暦
:
面積
:
83451.23 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
7
特別区分
:
指定年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
青森県
所在地(市区町村)
:
青森県五所川原市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
山王坊遺跡(日吉神社境内)
解説文:
詳細解説
津軽半島のほぼ中央部,日本海に面した十三湖(じゅうさんこ)と呼ばれる潟湖(せきこ)の北岸に位置する中世宗教遺跡である。十三湖周辺には,南北朝から室町時代にかけてこの地を支配した安藤氏に関連する遺跡が多数存在するとともに,中世的景観が色濃く残る。
遺跡は十三湖北岸,安藤氏の居館とされる福島城の北方,山王坊川が流れる沖積地の奥まった山間部の谷間に立地しており,発掘調査の結果,拝殿,渡廊(わたりろう),舞台,中門,本殿と考えられる礎石建物が一直線に並ぶ神社跡,廂(ひさし)を含めた東西7間,南北5間の南面する建物を中心にコの字状に配置された建物群から成る寺院跡といった,中世の神仏習合を示す伽藍が極めて良好な状態で保存されていることが明らかになった。また,造営にあたっては室町幕府と密接な関係にあった安藤氏が深くかかわっていたことは疑いなく,整然と配置された伽藍は南北朝から室町時代における京都との交流を具体的に示している。さらに,十三湖を中心に分布する史跡十三湊遺跡(とさみなといせき)や福島城などと一体のものとして中世的な景観を構成するなど,中世社会,文化を知る上でも重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
山王坊遺跡(日吉神社境内)
山王坊遺跡(遠景)
山王坊遺跡(礎石建物)
写真一覧
山王坊遺跡(日吉神社境内)
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山王坊遺跡(遠景)
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山王坊遺跡(礎石建物)
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解説文
津軽半島のほぼ中央部,日本海に面した十三湖(じゅうさんこ)と呼ばれる潟湖(せきこ)の北岸に位置する中世宗教遺跡である。十三湖周辺には,南北朝から室町時代にかけてこの地を支配した安藤氏に関連する遺跡が多数存在するとともに,中世的景観が色濃く残る。 遺跡は十三湖北岸,安藤氏の居館とされる福島城の北方,山王坊川が流れる沖積地の奥まった山間部の谷間に立地しており,発掘調査の結果,拝殿,渡廊(わたりろう),舞台,中門,本殿と考えられる礎石建物が一直線に並ぶ神社跡,廂(ひさし)を含めた東西7間,南北5間の南面する建物を中心にコの字状に配置された建物群から成る寺院跡といった,中世の神仏習合を示す伽藍が極めて良好な状態で保存されていることが明らかになった。また,造営にあたっては室町幕府と密接な関係にあった安藤氏が深くかかわっていたことは疑いなく,整然と配置された伽藍は南北朝から室町時代における京都との交流を具体的に示している。さらに,十三湖を中心に分布する史跡十三湊遺跡(とさみなといせき)や福島城などと一体のものとして中世的な景観を構成するなど,中世社会,文化を知る上でも重要である。
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詳細解説
山王坊遺跡は津軽半島のほぼ中央部、日本海に面した十三湖(じゅうさんこ)と呼ばれる潟湖(せきこ)北岸に位置する中世宗教遺跡である。十三湖一帯は、蝦夷島(えぞがしま)(北海道)との海上交通と岩木川水系を利用した津軽平野の内陸部との水上交通が交わる物流拠点であり、十三湊は戦国期に成立したと考えられるいわゆる『廻船式目(かいせんしきもく)』に三津七湊(さんしんしちそう)の一つとしてみえ、中世北日本の重要港湾であったことが知られている。 南北朝から室町時代には中世国家の境界領域に位置するという立地条件のもと蝦夷管領を務めた津軽の豪族、安藤(安東)氏が拠点を置き、北方世界と畿内を結ぶ北日本海交通の重要港として発展、繁栄した。そのため、十三湖一帯には安藤氏の居館と考えられる福島城跡、港町である史跡十三湊遺跡をはじめとする安藤氏に関連する中世遺跡群が多数存在するとともに、こうした遺跡と十三湖や日本海がつくり上げる景観は、中世的な雰囲気を色濃く留めている。 山王坊遺跡は十三湖北岸、福島城跡の北方、「山王沢」と呼ばれる山王坊川が流れる沖積地の奥まった谷間に立地している。寛政8年(1796)から3年間、津軽に滞在した菅江真澄(すがえますみ)が記した『外浜奇勝(そとがはまきしょう)』には、「山王坊という寺のあと」という記載がみえ、遅くとも江戸時代後期には寺跡の存在が知られていたことが分かる。 発掘調査は昭和57年度から平成元年度まで東北学院大学東北文化研究所が、平成14年度から平成21年度にかけては五所川原市教育委員会が実施している。その結果、礎石建物などの遺構が極めて良好に残っており、中世の神社と寺院といった神仏習合を示す伽藍が明らかになった。 遺跡の最も奥にあたる丘陵斜面では2段の造成面と石階(いしばし)、門あるいは鳥居のものと考えられる礎石等を検出している。下段の平坦面からは拝殿と考えられる3間四方の礎石建物を検出し、上段では一辺6mの方形配石墓を検出している。方形配石墓付近からは無縫塔の基礎と請花(うけばな)、蔵骨器とみられる少なくとも4種類の壺片が出土していることから、山王坊遺跡の建物伽藍を整えた僧侶あるいはそれを庇護した安藤氏一族の墓である可能性が考えられる。 山王坊川西岸の最も開けた平坦地では、南から順に拝殿、渡廊(わたりろう)、舞台、中門、本殿と考えられる礎石建物を一直線に並んだ状態で検出した。拝殿と考えられる建物は、方三間に廻縁(まわりぶち)を持ち、浄土教系仏堂における来迎柱(らいごうばしら)の礎石が存在することから、元々は仏堂であったものを拝殿に改造した可能性が指摘されている。また、その西側では、南北に連なる礎石建物を検出した。 これらの建物群の南側では3棟の礎石建物を検出した。廂を含めて東西7間、南北5間の規模を持つ南面する建物を中心にコの字状に配置した建物群は、仏堂とそれに付随する庫裏、参籠所(さんろうじょ)等の施設と考えられる。東側の建物と西側の建物はそれぞれ中心建物と渡廊で結ばれている。また、中心建物は流水(水路)に跨って建築されており、3つの建物に囲まれた空間には自然の流れを利用した庭園の存在が想定される。 山王坊遺跡から出土した中世陶磁器等の年代はいずれも14世紀中頃から15世紀中頃である。史跡十三湊遺跡の発掘調査成果からすると、十三湊が最盛期を迎えるのは14世紀中頃から15世紀前半であり、安藤氏が最も力を持ったのもこの頃と考えられている。安藤氏は、永享4年(1432)に南部氏による攻撃を受け蝦夷島に退去し、その後、十三湊に帰還するが、嘉吉2年(1442)の南部氏による2度目の攻撃によって再び蝦夷島に退去する。山王坊遺跡の存続時期は安藤氏の全盛期と合致し、廃絶時期は安藤氏の蝦夷島退去に合致しており、このことから山王坊遺跡は十三湊とともに安藤氏が深く関わった宗教施設であることが分かる。 このように山王坊遺跡は、二つの丘陵に挟まれ周囲から隔絶された幅の狭い谷筋に、14世紀中頃から15世紀中頃の神仏習合の建物配置が当時の景観とともに極めて良好に残っていることが明らかになった。また、その造営には室町幕府と密接な関係にあった安藤氏が深く関わっていたことは疑いなく、整然と配置された伽藍は南北朝から室町時代における京都との交流を具体的に示している。さらに、十三湖を中心に分布する史跡十三湊遺跡や福島城跡と一体のものとして中世的な景観を構成するなど、中世社会、文化を知る上でも重要である。よって、史跡に指定し保護を図ろうとするものである。