国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
東町田墳墓群
ふりがな
:
ひがしちょうだふんぼぐん
東町田墳墓群(円形墳丘墓 近景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
弥生終末期~古墳前期
年代
:
西暦
:
面積
:
5107.0 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
7
特別区分
:
指定年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
岐阜県
所在地(市区町村)
:
岐阜県大垣市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
東町田墳墓群(円形墳丘墓 近景)
解説文:
詳細解説
岐阜県西南部,金生山(きんしょうざん)麓から派生する標高15~18mの段丘上に所在する,弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて築造された墳墓及び古墳。
台地南西縁辺部に,弥生時代終末期に築造された直径17.6mなど2基の円形墳丘墓が良好に遺存し,近接して同時期の一辺10m前後の方形周溝墓2基がある。古墳時代前期になると墓域は東方に移り,墳長22mなど2基の前方後方墳(前方後方形周溝墓)と一辺14mなど3基の方墳(方形周溝墓)が築造された。遺物としては,口縁部内面に人物,外面の胴部上半に切妻高床建物,シカなどの動物を描いた絵画土器や水銀朱が付着する石臼などが出土した。
本墳墓群は,方形周溝墓が一般的であった弥生時代終末期において円形墳丘墓を採用し,その後,前方後方墳(前方後方形周溝墓)と方墳(方形周溝墓)が築造される段階を経て,前方後円墳が安定的に築造されるという,古墳成立期の東海地域の状況を良好に示しているという点で重要である。また,線刻絵画土器,水銀朱に関係した遺物は,当時の人々の精神世界や葬送儀礼の在り方を知る上でも重要である。
今回,9基の墳墓及び古墳のうち4基を指定する。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
東町田墳墓群(円形墳丘墓 近景)
東町田墳墓群(円形墳丘墓 周溝)
東町田墳墓群(出土遺物 絵画土器)
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東町田墳墓群(円形墳丘墓 近景)
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東町田墳墓群(円形墳丘墓 周溝)
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東町田墳墓群(出土遺物 絵画土器)
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解説文
岐阜県西南部,金生山(きんしょうざん)麓から派生する標高15~18mの段丘上に所在する,弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて築造された墳墓及び古墳。 台地南西縁辺部に,弥生時代終末期に築造された直径17.6mなど2基の円形墳丘墓が良好に遺存し,近接して同時期の一辺10m前後の方形周溝墓2基がある。古墳時代前期になると墓域は東方に移り,墳長22mなど2基の前方後方墳(前方後方形周溝墓)と一辺14mなど3基の方墳(方形周溝墓)が築造された。遺物としては,口縁部内面に人物,外面の胴部上半に切妻高床建物,シカなどの動物を描いた絵画土器や水銀朱が付着する石臼などが出土した。 本墳墓群は,方形周溝墓が一般的であった弥生時代終末期において円形墳丘墓を採用し,その後,前方後方墳(前方後方形周溝墓)と方墳(方形周溝墓)が築造される段階を経て,前方後円墳が安定的に築造されるという,古墳成立期の東海地域の状況を良好に示しているという点で重要である。また,線刻絵画土器,水銀朱に関係した遺物は,当時の人々の精神世界や葬送儀礼の在り方を知る上でも重要である。 今回,9基の墳墓及び古墳のうち4基を指定する。
詳細解説▶
詳細解説
東町田墳墓群は岐阜県西南部、金生山(きんしょうざん)麓から派生する標高15~18mの段丘上に所在し、ここから西と南には比高4~5mのところに沖積地が広がっている。 この地には弥生時代中期後葉以降、居住域と墓域が形成された。今回、保護を図ろうとするのは、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて築造された墳墓及び古墳9基のうちの4基である。 東町田墳墓群では、台地南西縁辺部に、円形墳丘墓2基及び方形周溝墓2基が隣接して築造された。円形墳丘墓はそれぞれ直径17.6m、高さ3.4mと直径14.0m、高さ2.3mの墳丘が良好に遺存し周溝を伴っている。周溝の埋土下層からは、完形かそれに近い土器が出土しており、墳丘上に供献されたと考えられる。埋葬施設については、墳丘上面で墓坑を確認していないが、レーダー探査の所見によれば石材を利用した施設は採用されなかった可能性が高い。この円形墳丘墓に近接して同時期の一辺10m前後の方形周溝墓2基も検出し、周溝からは土器が出土している。その特徴から弥生時代終末期(庄内式期)に築造されたと考えられる。古墳時代前期になると、墓域は東方に移り、墳長17.4mの前方後方墳(前方後方形周溝墓)と一辺12m前後の方墳(方形周溝墓)が、続いて墳長22mの前方後方墳(前方後方形周溝墓)と一辺7m前後及び一辺14m前後の方墳(方形周溝墓)が築造された。 出土遺物で注目されるのは、方形周溝墓の周溝内から出土した線刻絵画を有するほぼ完形の広口壺である。器高24.8cm、口径14.1cmで、口縁部内面には人物、外面の胴部上半には切妻高床建物、連続的にコの字形を表現した特異な文様、シカ2頭、不明動物(イヌか)、独立棟持柱をもつ切妻高床建物が描かれている。動物と建物は当時神聖視されたもので、弥生時代の人々の精神世界が表現されていると考えられる。絵画土器は通常居住域から出土するが、本例は墓に伴った稀少な事例である。また、前方後方墳(前方後方形周溝墓)の周溝底部からは、水銀朱が付着する石臼と、水銀朱貯蔵容器として使用されたと思われるパレススタイルの壺が出土しており、赤色顔料を用いた葬送儀礼の在り方をうかがうことができる。 弥生時代終末期において有力者の墳墓は方形周溝墓が主流であったが、瀬戸内東部地域や畿内地域の一部のように円形周溝墓が築造される地域があった。これらの地域では、いち早く前方後円墳が認められ、円形周溝墓の存在は前方後円墳の出現過程を知る上で重要な手がかりになると考えられる。 東町田墳墓群が所在する大垣市では、古墳時代前期に大型前方後円墳が継続的に築造された。本墳墓群は、方形周溝墓が一般的であった弥生時代終末期の東海地域において円形墳丘墓を採用し、その後、前方後方墳(前方後方形周溝墓)と方墳(方形周溝墓)が築造される段階を経て、前方後円墳が安定的に築造されるという、古墳成立期の複雑な過程の一例を良好に示しているという点で重要である。また、出土品のうち、動物及び建物、特異な文様を描いた線刻絵画土器、水銀朱に関係した土器と石器は、当時の人々の精神世界や葬送儀礼の在り方を知ることができるという点でも重要である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。