国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
水口岡山城跡
ふりがな
:
みなくちおかやまじょうあと
水口岡山城跡(主郭北面の石垣)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
安土桃山
年代
:
西暦
:
面積
:
238622.85 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
7
特別区分
:
指定年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
滋賀県
所在地(市区町村)
:
滋賀県甲賀市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
水口岡山城跡(主郭北面の石垣)
解説文:
詳細解説
古くから街道が通過する交通の要衝である水口平野の東端部に位置する古城山(こじょうざん)に所在する。天正13年(1585)頃に豊臣秀吉の命を受けた中村一氏(なかむらかずうじ)により甲賀の直接支配の拠点,東国への抑えとして築城されたと考えられる。その後,豊臣政権下で奉行を務めた増田長盛(ましたながもり),長束正家(なつかまさいえ)といった政権の重要人物が城主とされるなど,その政治的,軍事的な意味合いは大きい。関ヶ原の戦い後には,正家が西軍に与したために,接収され,その後しばらくして廃城となるが,それ以後も幕府や水口藩により管理され,明治時代以降は公有財産として引き継がれたため,保存状況は極めて良好である。
また,文献史料には,築城にあたって矢川寺(やがわでら)の堂塔を壊して水口岡山城へ運んでいることや,長束正家が城主となった後に大溝城(おおみぞじょう)の天守を解体し,その部材を利用したことなどが知られているが,発掘調査では矢川寺遺跡出土のものと同笵(どうはん)の軒瓦,大溝城跡から運ばれたと考えられる軒瓦が出土したことにより,文献史料の記載が考古学的にも裏付けられた。
豊臣政権により甲賀の支配と東国の抑えのために築城された,保存状態が良好な織豊系城郭であり,出土遺物から築城や整備に伴う資材調達の様子が具体的に分かり,当時の築城の在り方を知る上でも重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
水口岡山城跡(主郭北面の石垣)
水口岡山城跡(遠景)
水口岡山城跡(虎口の石垣)
水口岡山城跡(大溝城から運ばれた軒瓦)
写真一覧
水口岡山城跡(主郭北面の石垣)
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水口岡山城跡(遠景)
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水口岡山城跡(虎口の石垣)
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水口岡山城跡(大溝城から運ばれた軒瓦)
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解説文
古くから街道が通過する交通の要衝である水口平野の東端部に位置する古城山(こじょうざん)に所在する。天正13年(1585)頃に豊臣秀吉の命を受けた中村一氏(なかむらかずうじ)により甲賀の直接支配の拠点,東国への抑えとして築城されたと考えられる。その後,豊臣政権下で奉行を務めた増田長盛(ましたながもり),長束正家(なつかまさいえ)といった政権の重要人物が城主とされるなど,その政治的,軍事的な意味合いは大きい。関ヶ原の戦い後には,正家が西軍に与したために,接収され,その後しばらくして廃城となるが,それ以後も幕府や水口藩により管理され,明治時代以降は公有財産として引き継がれたため,保存状況は極めて良好である。 また,文献史料には,築城にあたって矢川寺(やがわでら)の堂塔を壊して水口岡山城へ運んでいることや,長束正家が城主となった後に大溝城(おおみぞじょう)の天守を解体し,その部材を利用したことなどが知られているが,発掘調査では矢川寺遺跡出土のものと同笵(どうはん)の軒瓦,大溝城跡から運ばれたと考えられる軒瓦が出土したことにより,文献史料の記載が考古学的にも裏付けられた。 豊臣政権により甲賀の支配と東国の抑えのために築城された,保存状態が良好な織豊系城郭であり,出土遺物から築城や整備に伴う資材調達の様子が具体的に分かり,当時の築城の在り方を知る上でも重要である。
詳細解説▶
詳細解説
水口岡山城跡は水口平野の東端部に位置する標高約283m、東西約1km、南北約500mの独立丘陵である古城山(こじょうざん)に所在する。水口は古くから街道が通過する交通の要衝であり、仁和2年(886)には近江から鈴鹿関を経由し伊勢へと向かう新道が東海道とされた。それ以後、伊勢参宮の道路の通過点として水口の名がしばしば史料に現れるようになり、応永31年(1424)には足利義持が伊勢参宮の際に水口に宿泊していることが知られる。 天正13年(1585)の豊臣秀吉による紀州(きしゅう)攻めの後、多くの甲賀衆が改易処分とされた。水口岡山城はその直後に築城が開始されたと考えられている。享保19年(1734)にまとめられた『近江輿地誌略(おうみよちしりゃく)』には、江戸時代以前の水口城である岡山古城址は天正13年に中村一氏(なかむらかずうじ)により築城されたとある。 それ以後、この城は豊臣政権による甲賀の直接支配の拠点として、また東国への抑えとして重要な位置を占めた。天正18年(1590)、一氏が駿河(するが)へ移封されると、一氏の所領は増田長盛(ましたながもり)へ引き継がれ、文禄(ぶんろく)4年(1595)には長束正家に引き継がれた。しかし、関ヶ原の戦いで正家が西軍に属したため、戦いの後に東軍の池田長吉らにより接収された。 その後、水口は幕府の直轄領となり、慶長6年(1601)には東海道の整備によって宿駅(しゅくえき)となり、水口代官によって統治された。長束正家退去後の水口岡山城に関する記録は乏しいが、寛永11年(1643)の水口城の築城に伴い、石垣の石材が水口岡山城から水口城に運ばれたと伝えられている。また、天和2年(1682)に水口藩が成立した以降は御用林となり、明治時代以降は公有財産として引き継がれ、現在も山のほとんどの部分が市有地となっている。 水口岡山城が立地する古城山の山中には、広範囲にわたって曲輪や堀、土塁、石垣などの城郭遺構が分布することが知られていたが、平成22年度から甲賀市教育委員会が実施した測量調査や発掘調査によって城郭の構造が判明した。曲輪は、空堀や堀切、竪堀によって区切られた一定の範囲でまとまって展開する傾向がみられる。また、山頂部に規模の大きな曲輪が東西方向に連なって配置され、城の中枢部を形成している。それらの中心曲輪群の中で最高所に位置する曲輪には、東西両端に櫓台(やぐらだい)とみられる土壇状の高まりがある。 発掘調査は、主郭部(しゅかくぶ)東側の櫓台と西側の櫓台、主郭部の南側斜面、大手道上に位置する枡形虎口(ますがたこぐち)、大手道に隣接する曲輪、主要曲輪群の東端部に位置する曲輪に付属する虎口、城の西部に位置する曲輪で行っている。 それぞれの調査区では、破城(はじょう)によって徹底的に崩され、石材が持ち去られた石垣の痕跡や石階(いしばし)を確認するとともに、主郭からは瓦がまとまって出土している。また、16世紀後半の貯蔵具をはじめとする国産陶器が一定量出土している。破城は近世東海道を望む城の前面において徹底して行われているが、背面にあたる主郭の北面側では5箇所で石垣が残存している。このように山中には多くの城郭遺構があり、廃城時の様子を極めて良好に留めている。 天正19年(1591)から慶長5年(1600)までの間に出されたとみられる「長束正家書状」には、豊臣政権が大溝城(おおみぞじょう)(滋賀県高島市、重要文化的景観「大溝の水辺景観」)の天守を解体し、その部材を水口へ運ぶように命じたと記されているが、出土した瓦の中には大溝城から運ばれたと考えられる軒瓦や、矢川寺遺跡(甲賀市甲南町)と同笵(どうはん)の寺院系の軒瓦がまとまってみられ、さらに関ヶ原の合戦後、この城を接収したとされる池田家の家紋である揚羽蝶文(あげはちょうもん)を施した鬼瓦(おにがわら)が認められた。享保8年(1723)にまとめられた『矢川雑記』には、天正13年(1585)に中村一氏が矢川寺(やがわでら)の堂塔を壊して岡山の城へ転用したとある。こうした遺物の出土によって、水口岡山城の築城から廃城に至る経過を考古学的にもたどることができる。 水口岡山城は豊臣政権により甲賀の支配と東国の抑えのために築城された織豊系城郭であり、中村一氏、増田長盛、長束正家といった豊臣政権を支える重要人物が城主とされるなど、その政治的、軍事的な意味合いは大きい。また、遺跡の保存状態も極めて良好であり、出土遺物から築城や整備に伴う資材調達の様子が具体的に分かることは、当時の築城の在り方を知る上でも重要である。よって、史跡に指定し保護を図ろうとするものである。