国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
英彦山
ふりがな
:
ひこさん
英彦山(英彦山山頂)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
古代~
年代
:
西暦
:
面積
:
901859.33 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
7
特別区分
:
指定年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県
:
福岡県
所在地(市区町村)
:
福岡県田川郡添田町
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
英彦山(英彦山山頂)
解説文:
詳細解説
標高約1200mの南岳(みなみだけ)・北岳(きただけ)・中岳(なかだけ)の3峰から成る信仰の山である。山頂には経塚が多数営まれ,山中行場(ぎょうば)として玉屋般若窟(はんにゃくつ)に代表される修行窟(しゅぎょうくつ)が整備された。神仏が習合して彦山権現が誕生し,それを讃える祭礼が整えられると,院坊が智室谷(ちむろだに)をはじめ各谷に配された。さらに,大講堂を本堂とした伽藍が整備され,彦山(ひこさん)霊仙寺(りょうぜ(ん)じ)としての寺格が確立する。室町時代には熊野修験の影響を受け,金剛界竈門山(こんごうかいかまどさん)(宝満山(ほうまんざん)),胎蔵界彦山(たいぞうかいひこさん)を往来する峰入行(みねいりぎょう)が開始された。戦国動乱期にほとんどの建物が焼失するが,江戸時代に入ると,小倉(こくら)藩主細川忠興(ただおき)をはじめ諸大名から寄進を受けて再興を遂げ,享保14年(1729),霊元法皇より「英彦山」の勅額が下賜された。明治元年(1868)の神仏分離令により,英彦山霊仙寺は英彦山神社(現在の神宮)となり今日に至っている。英彦山霊仙寺(英彦山神宮)の境内域から銅鳥居(かねのとりい)までの約1kmの大門筋の両側には多くの坊舎が並び,座主院(ざすいん)跡には石垣や礎石が極めて良好に遺存している。中岳山頂に上宮社殿が建ち,山頂に至る参道も良好に維持されている。また,神社に姿を変えた修行窟も現在まで英彦山信仰の中核をなしている。このように,英彦山は,我が国を代表する山岳信仰の遺跡で,我が国の修験・仏教・神道の信仰の在り方を考える上で重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
英彦山(英彦山山頂)
英彦山(大門筋門前)
英彦山(玉屋神社(般若窟))
英彦山(英彦山神社奉幣殿)
英彦山(英彦山神社銅鳥居)
英彦山(智室窟)
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英彦山(英彦山山頂)
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英彦山(大門筋門前)
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英彦山(玉屋神社(般若窟))
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英彦山(英彦山神社奉幣殿)
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英彦山(英彦山神社銅鳥居)
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英彦山(智室窟)
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解説文
標高約1200mの南岳(みなみだけ)・北岳(きただけ)・中岳(なかだけ)の3峰から成る信仰の山である。山頂には経塚が多数営まれ,山中行場(ぎょうば)として玉屋般若窟(はんにゃくつ)に代表される修行窟(しゅぎょうくつ)が整備された。神仏が習合して彦山権現が誕生し,それを讃える祭礼が整えられると,院坊が智室谷(ちむろだに)をはじめ各谷に配された。さらに,大講堂を本堂とした伽藍が整備され,彦山(ひこさん)霊仙寺(りょうぜ(ん)じ)としての寺格が確立する。室町時代には熊野修験の影響を受け,金剛界竈門山(こんごうかいかまどさん)(宝満山(ほうまんざん)),胎蔵界彦山(たいぞうかいひこさん)を往来する峰入行(みねいりぎょう)が開始された。戦国動乱期にほとんどの建物が焼失するが,江戸時代に入ると,小倉(こくら)藩主細川忠興(ただおき)をはじめ諸大名から寄進を受けて再興を遂げ,享保14年(1729),霊元法皇より「英彦山」の勅額が下賜された。明治元年(1868)の神仏分離令により,英彦山霊仙寺は英彦山神社(現在の神宮)となり今日に至っている。英彦山霊仙寺(英彦山神宮)の境内域から銅鳥居(かねのとりい)までの約1kmの大門筋の両側には多くの坊舎が並び,座主院(ざすいん)跡には石垣や礎石が極めて良好に遺存している。中岳山頂に上宮社殿が建ち,山頂に至る参道も良好に維持されている。また,神社に姿を変えた修行窟も現在まで英彦山信仰の中核をなしている。このように,英彦山は,我が国を代表する山岳信仰の遺跡で,我が国の修験・仏教・神道の信仰の在り方を考える上で重要である。
詳細解説▶
詳細解説
英彦山は標高約1200mの南岳・北岳・中岳の3峰から成る信仰の山で、我が国有数の修験道場である。山塊は福岡県の東部、大分県の北部にあって、両県の境をなす。 英彦山に関する調査研究は田川郷土研究会による成果以後、添田町教育委員会による昭和47年の英彦山民俗緊急調査、福岡県教育委員会・添田町教育委員会による昭和52年度の英彦山伝統的建造物群概要詳細調査のほか、昭和57年から59年にかけての朝日新聞西部本社主催の英彦山学術調査等がある。平成7年には添田町教育委員会が開発計画に伴って大河辺(おおこうべ)地区の調査を実施し、確認した墓地全域を町指定として保存を図った。平成22年度から、添田町教育委員会は英彦山の歴史的範囲と価値を明らかにするため、歴史・民俗・古文書・考古・美術工芸・建造物の各分野から成る英彦山調査指導委員会を組織し、その指導のもと、総合的調査を実施した。 英彦山の山頂には末法思想の隆盛に伴う経塚が多数営まれた(南岳及び北岳山頂出土の経筒は重要文化財に指定)。『本朝世紀』等に彦山の衆徒が嘉保元年(1094)に大宰府に強訴し、大弐藤原長房が逐電上洛したと記録され、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には「竈門の本山 彦の山」と宝満山とともに霊場としてみえている。英彦山には山中行場として玉屋般若窟に代表される修行窟が整備され、発展を遂げた。その中心的年代は今熊野窟磨崖仏の嘉禎3年(1237)の紀年銘や採集遺物から11世紀から13世紀頃と考えられ、『彦山流記』(鎌倉初期の彦山を推察する資料として貴重)に記された講衆による窟籠(くつごもり)修行が古代・中世の中心的修行形態であったと考えられている。神仏が習合して彦山権現が誕生し、それを讃える松会(まつえ)祭礼が整えられると、山中講衆は組織化され、院坊が各谷に配される。また、大講堂を本堂とした伽藍が整備され、彦山霊仙寺(りょうぜ(ん)じ)としての寺格が確立した。山中惣大行事を中心として豊前六峯大行事と豊前・豊後・筑前3国三十六箇村大行事を配置し、山麓七大行事とともに四十八大行事によって七里四方の神領域を確保した。英彦山は、山頂の聖域から俗人の住む門前町までを包含する独自の大規模修験集落を形成した点に特徴がある。英彦山修験道の隆盛は、元弘3年(正慶2〈1333〉)後伏見天皇第六皇子長助法親王を世襲座主助有として、黒川(現、朝倉市)の黒川院に迎え、天台宗門跡との関係を深め、天台修験道場としての性格を強めていったことによる。室町時代には熊野修験の影響を受け、金剛界竈門山(宝満山)、胎蔵界彦山を往来し、擬死再生の十界行を行う峰入行(みねいりぎょう)が開始され、峰中宿(ぶちゅうしゅく)が設置された。 戦国動乱期にほとんどの坊舎堂宇が焼失し、秀吉により全寺領が没収されたが、江戸時代に入ると、小倉藩主細川忠興をはじめ諸大名を外護の大檀那として多大な寄進を受け再興を遂げた。細川忠興は元和2年(1616)大講堂を再建し、佐賀藩主鍋島勝茂は寛永14年(1637)に銅鳥居(かねのとりい)を建立した。天台宗門跡や公家との関係も深め、元禄9年(1696)に天台修験別山として公認され、享保14年(1729)には、霊元法皇より「英」の字を冠して「英彦山」の勅額が下賜された。『豊前国郷村高帳』には坊中500軒、庵室80軒、市中25軒との記述がみえるが、平成24年に実施した航空レーザー測量の解析により、門前に645面以上の平坦面を確認し、28棟に及ぶ歴史的建造物の調査を実施して、修験集落の実態を明らかとすることができた。坊家は諸国の檀家を廻って護符や薬を配布するとともに、英彦山権現の霊験を語り英彦山への参詣を促した。これにより、代参講による参詣が盛んに行われた。明治元年の神仏分離令により、英彦山霊仙寺は英彦山神社(現、神宮、旧官幣中社)となり、座主家は「高千穂」を名乗って、英彦山神宮宮司家として今日まで世襲されている。明治初年の坊中屋敷図等から250坊程が残ったことが分かるが、その後も離山が進行していった。英彦山は昭和2年に日本百景に選定され、昭和25年に耶馬日田英彦山国定公園として我が国最初の国定公園の一つに選定された。信仰の山から観光の山へと変遷を遂げるが、史跡としての価値は損なわれずに極めて良好な形で遺存している。 英彦山霊仙寺(英彦山神宮)の境内域(中心となる奉幣殿(旧大講堂)は重要文化財)から銅鳥居(重要文化財)までの約1kmの大門筋の両側に多くの坊舎が並び、名勝旧亀石坊庭園のある旧亀石坊付近で大辻道が交差し、その南側奥に座主院跡がある。東西150m、南北100mの規模を有し、石垣や礎石が残っている。その南約300mに位置する智室谷(ちむろだに)は上部に智室窟、最下部に文殊窟を配置し、その間に谷集落が展開し、谷を望む南側尾根鞍部に墓地が並ぶ構成で、窟と谷集落との典型的な様相を示している。中岳山頂に上宮社殿が建ち、山頂に至る参道も良好に維持されている。また、修行窟は神社に姿を変えながらも現在まで英彦山信仰の中核をなしている。峰中宿の遺構も今回の調査で特定することができた。 このように、古代以来信仰を集め、大規模な修験集落を形成した英彦山は、我が国を代表する山岳信仰の遺跡であり、我が国の修験・仏教・神道の信仰の在り方を考える上で重要であることから、英彦山が領域とした範囲のうち、条件の整った地域を指定し、保護を図ろうとするものである。