国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
小熊山古墳・御塔山古墳
ふりがな
:
こぐまやまこふん・おとうやまこふん
小熊山古墳・御塔山古墳(小熊山古墳 全景)
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
古墳前期~中期
年代
:
西暦
:
面積
:
48252.0 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
7
特別区分
:
指定年月日
:
2017.02.09(平成29.02.09)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
一.貝塚、集落跡、古墳その他この類の遺跡
所在都道府県
:
大分県
所在地(市区町村)
:
大分県杵築市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
小熊山古墳・御塔山古墳(小熊山古墳 全景)
解説文:
詳細解説
別府湾(べっぷわん)の北岸,国東半島(くにさきはんとう)の南端部に位置し,海を見下ろす丘陵上に立地する。小熊山古墳は,九州では最古級の円筒埴輪が出土し,畿内地域で出現した埴輪祭祀の展開状況を知ることができる。墳長116.5mの大型前方後円墳であり,古墳時代前期前半(3世紀後半から4世紀初頭)に属する。御塔山古墳は,小熊山古墳の南南西500mに位置し,九州では稀な家形(いえがた)・囲形(かこいがた)・木樋形(もくひがた)・船形(ふながた)・短甲形(たんこうがた)など多様な形象埴輪が出土する。長方形の造出(つくりだし)を有する直径75.5mの大型円墳であり,古墳時代中期前半(5世紀前半)に属する。
これらの古墳からは,瀬戸内海を望む九州東北部沿岸における古墳出現後の展開状況,さらには,畿内地域で成立した最新様式の埴輪群の波及から,大和政権との密接な関係性を有することが明らかになった。このことにより,九州における古墳時代開始期から中期にかけての展開状況を知る上でも重要である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
小熊山古墳・御塔山古墳(小熊山古墳 全景)
小熊山古墳・御塔山古墳(小熊山古墳 くびれ部)
小熊山古墳・御塔山古墳(御塔山古墳 全景)
小熊山古墳・御塔山古墳(御塔山古墳 墳端付近)
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小熊山古墳・御塔山古墳(小熊山古墳 全景)
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小熊山古墳・御塔山古墳(御塔山古墳 全景)
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小熊山古墳・御塔山古墳(御塔山古墳 墳端付近)
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解説文
別府湾(べっぷわん)の北岸,国東半島(くにさきはんとう)の南端部に位置し,海を見下ろす丘陵上に立地する。小熊山古墳は,九州では最古級の円筒埴輪が出土し,畿内地域で出現した埴輪祭祀の展開状況を知ることができる。墳長116.5mの大型前方後円墳であり,古墳時代前期前半(3世紀後半から4世紀初頭)に属する。御塔山古墳は,小熊山古墳の南南西500mに位置し,九州では稀な家形(いえがた)・囲形(かこいがた)・木樋形(もくひがた)・船形(ふながた)・短甲形(たんこうがた)など多様な形象埴輪が出土する。長方形の造出(つくりだし)を有する直径75.5mの大型円墳であり,古墳時代中期前半(5世紀前半)に属する。 これらの古墳からは,瀬戸内海を望む九州東北部沿岸における古墳出現後の展開状況,さらには,畿内地域で成立した最新様式の埴輪群の波及から,大和政権との密接な関係性を有することが明らかになった。このことにより,九州における古墳時代開始期から中期にかけての展開状況を知る上でも重要である。
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詳細解説
小熊山古墳・御塔山古墳は、国東半島(くにさきはんとう)の南東部で別府湾(べっぷわん)に向かって突き出た半島の南部に位置し、標高116mの大熊山(おおくまやま)から南へ派生する丘陵上に立地する古墳時代前期前半の大型前方後円墳と、古墳時代中期初頭の長方形の造出(つくりだし)を有する大型円墳である。 平成元年に発見された小熊山古墳は、標高84mの小熊山(こぐまやま)の頂部に造築された墳長116.5mの大型前方後円墳であり、後円部は3段の、前方部は2段の段築(だんちく)を有する。この古墳からは、大分県最東端の佐賀関(さがのせき)半島、愛媛県最西端の佐田岬(さだみさき)半島、山口県最南端の室津(むろつ)半島を一望することができ、その眺望により立地の重要性も知ることができる。埋葬施設については盗掘の痕跡はなく、また未調査であるためその構造は不明である。墳丘斜面には基底石が残る部分があること、墳裾(ふんすそ)においては拳大から人頭大の自然礫が多数出土したことから、本来墳丘には葺石(ふきいし)が存在していたと考えられる。出土遺物としては埴輪と土師器があるが、いずれも原位置を保ってはいない。埴輪の種類としては、九州においては最古級に属する円筒(えんとう)埴輪・鰭付楕円筒(ひれつきだえんとう)埴輪・壺形(つぼがた)埴輪から成り、円筒埴輪は有段口縁部(ゆうだんこうえんぶ)をなし、特殊器台形(とくしゅきだいがた)埴輪の特徴を残している。これらの埴輪からこの古墳は古墳時代前期前半の3世紀後半から4世紀初頭に位置付けられるものと考えられ、畿内地域で出現した埴輪祭祀の展開状況を知ることができる。 御塔山古墳は、小熊山古墳の南南西500mに位置し、昭和49年に大分県教育委員会が実施した遺跡詳細分布調査に際して発見された。標高29mの丘陵頂部に立地し、直径75.5mの3段の段築を有する大型円墳であり、南端部には幅20m、長さ8mの長方形の造出を持つ。周濠(しゅうごう)については、最大幅は11.5mの規模を有するが、古墳の北側では確認できていない。墳丘斜面には基底石が残る部分があること、墳裾においては拳大から人頭大の自然礫が多数出土したことから、本来墳丘には葺石が存在していたと考えられる。埋葬施設については盗掘の痕跡はなく、また未調査であるためその構造は不明である。出土遺物のほとんどは埴輪であるが、いずれも原位置を保っていない。種類としては、円筒埴輪や朝顔形(あさがおがた)埴輪をはじめ、家形(いえがた)・囲形(かこいがた)・木樋形(もくひがた)・盾形(たてがた)・蓋形(きぬがさがた)・船形(ふながた)・短甲形(たんこうがた)などの形象(けいしょう)埴輪(はにわ)がある。これだけ多様な形象埴輪が出土することは九州では稀であり、その埴輪の年代からこの古墳は古墳時代中期前半の5世紀前半に位置付けられる。このように、御塔山古墳の墳形や埴輪の変化は畿内地域のそれと連動しており、このことから畿内地域と当該地域の密接な関係性を知ることができる。 九州北東部でも別府湾をめぐる地域では、古墳時代初頭にまず別府湾北岸の国東半島南東部、小熊山古墳の北北東6kmに墳長約25mの下原(しもばる)古墳が出現し、年代的に次に位置付けられるのが小熊山古墳である。その後は、別府湾南岸で多くの前方後円墳や大型円墳が築造されるが、別府湾北岸では御塔山古墳が築造される。 このように、小熊山古墳・御塔山古墳は、瀬戸内海を望む九州東北部沿岸における古墳出現後の展開状況を明確に示している。さらには、畿内地域で成立した最新様式の埴輪群の波及から、この地域が大和(やまと)政権との密接な関係性を有することも明らかになった。これらのことにより、小熊山古墳と御塔山古墳を一体的に捉えることで、九州における古墳時代開始期から中期にかけての展開状況を知ることができる。よって、史跡に指定して保護を図ろうとするものである。