国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
郡山城跡
ふりがな
:
こおりやまじょうあと
指定4_郡山城跡(本丸と周辺の曲輪群
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種別1
:
史跡
種別2
:
時代
:
戦国時代~江戸時代
年代
:
西暦
:
面積
:
162177.28 m
2
その他参考となるべき事項
:
告示番号
:
141
特別区分
:
指定年月日
:
2022.11.10(令和4.11.10)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県
:
奈良県
所在地(市区町村)
:
奈良県大和郡山市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
指定4_郡山城跡(本丸と周辺の曲輪群
解説文:
詳細解説
奈良盆地の西ノ京丘陵南端に位置する近世城郭。天正13年(1585)に豊臣秀長が入城し畿内統治の拠点として大規模に整備が行われ、関ヶ原の戦い以後は譜代大名が城主となった。天守台のある本丸を中心に、毘沙門曲輪などの曲輪群、内堀、鷺堀などからなる。曲輪の周囲は石垣で築かれ、転用石材が多く用いられている。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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指定4_郡山城跡(本丸と周辺の曲輪群
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指定4_郡山城跡(本丸と周辺の曲輪群
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解説文
奈良盆地の西ノ京丘陵南端に位置する近世城郭。天正13年(1585)に豊臣秀長が入城し畿内統治の拠点として大規模に整備が行われ、関ヶ原の戦い以後は譜代大名が城主となった。天守台のある本丸を中心に、毘沙門曲輪などの曲輪群、内堀、鷺堀などからなる。曲輪の周囲は石垣で築かれ、転用石材が多く用いられている。
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詳細解説
奈良盆地の西ノ京丘陵南端に位置する近世城郭。天正8年(1580)に筒井順慶が入城し、その後天正13年(1585)に豊臣秀長が大和・和泉・紀伊の100万石を領有して入り、畿内統治の拠点として大規模に整備された。秀長没後は、秀長甥の豊臣秀保、増田長盛ら豊臣政権の要職を担う人物が城主を務め、この間に総構が完成したとされている。関ヶ原の戦い後、一時城主が不在となったが、元和元年(1615)に水野勝成が入城し、その後、本多、松平と譜代大名が城主を歴任し、享保9年(1724)には柳澤氏が城主となり明治時代を迎える。城の構造は、堀に囲まれた本丸を中心に、東に毘沙門曲輪、その北に常盤曲輪や玄武曲輪、本丸の西側に厩、その南に緑曲輪が位置する。本丸には北側に天守台が配される。天守は関ケ原の戦い以後に解体され、天守台の発掘調査によって礎石が確認されている。石垣については、中心部の曲輪を主体として堀の法面の大部分に築かれ、本丸付近に自然石の石積み、東に位置する毘沙門曲輪から東方の陣甫曲輪にかけて粗割材を利用する石積み、御殿のあった二ノ丸や緑曲輪にかけては花崗岩の割石による石積みである。本丸の石垣には石仏や寺院の礎石などの転用石材が多く含まれている。 以上のように、郡山城跡は、大規模な石垣をはじめとする遺構群が現存し、豊臣政権による築城の様相が明らかになるとともに、豊臣政権の畿内支配の一大拠点となり、その後は近世を通じて大和国の中心としての役割を持ち続けた重要な城である。