国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
史跡名勝天然記念物
主情報
名称
:
廣瀬淡窓旧宅及び墓
ふりがな
:
ひろせたんそうきゅうたくおよびはか
廣瀬淡窓墓
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種別1
:
史跡
種別2
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時代
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年代
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西暦
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面積
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その他参考となるべき事項
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告示番号
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特別区分
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指定年月日
:
1948.01.14(昭和23.01.14)
特別指定年月日
:
追加年月日
:
指定基準
:
七.墳墓及び碑
所在都道府県
:
大分県
所在地(市区町村)
:
日田市大字南豆田
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
廣瀬淡窓墓
解説文:
詳細解説
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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廣瀬淡窓墓
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廣瀬淡窓墓
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廣瀬淡窓墓
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詳細解説
広瀬淡窓は亀井南溟、同昭陽等に就て儒教を学び詩文を良くし旁ら仏老を喜び其の文名は当時海内に高かつた。早くから家塾を開いて多数の子弟を教授し文教の興隆に貢献するところ多く塾は数度移転したが、文化14年に始り、明治年間にまで及んだ。咸宜園は特に著名で淡窓は安政3年11月1日園内の春秋園(旧秋風庵)に於て沒した。 墓は咸宜園跡の東北方約180メートル、淡窓が生前選定しておいた長生園に営まれた墓石は総高約5尺7寸5分、正面に「文玄広瀬先生之墓」右側面に「安政3年歳次丙辰11月朔午時卒」と刻してある。傍に養子林外、弟旭荘等の墓が並び存し、又墓に向つて左前方には淡窓自選の墓誌銘を刻した碑が建てられている。高さ5尺5分篆額及び銘は旭荘の筆にかかり林外が沒年等の記事を補つている。 平成25年3月27日追加指定分 廣瀬淡窓旧宅は廣瀬淡窓の思想を育んだ淡窓の生家である。 廣瀬淡窓(天明2年〈1782〉~安政3年〈1856〉)は、豊後国日田郡豆田町魚町(現、日田市豆田町)に、商家廣瀬家の当主三郎右衛門の長男として生まれ、亀井南冥・昭陽父子に儒学を学んだ。病弱であったため、文化2年(1805)、家業を弟久兵衛(第6世、南陔(なんがい))に譲り、豆田町の長福寺学寮を借りて開塾した。塾は幾度か移転したが、文化14年(1817)、堀田村(現、日田市淡窓)秋風庵(伯父月化(げつか)夫妻の隠宅)の隣に居を構え、私塾咸宜園(かんぎえん)を開き、ここで多くの門下生を育てた。淡窓は安政3年11月1日に秋風庵において没し、生前選定の墓地(長生園)に埋葬された。私塾咸宜園の跡地は咸宜園跡として昭和7年7月23日に史跡に指定された。 淡窓の墓は、生家の南南東約320メートルにある。妻の墓や、末弟旭荘(第2代塾主)、養子の林外(旭荘の長男、第4代塾主)等の墓が並び、長生園全体が廣瀬淡窓墓として昭和23年1月14日に史跡に指定された。 淡窓は入門時に年齢・学歴・身分を奪う「三奪法」により、すべての門下生を平等に教育した。また、生徒の成績を19階級に分け公表する「月旦評」と呼ぶ評価法や塾生全員で塾や寮の職務を分担する「職任制」等により教育を行い、咸宜園開塾前及び咸宜園において2,500名を越える入門者を受け入れ、後の塾主によりさらに2,200名を越える入門者の教育が行われた。淡窓は正しいことをすれば天に報われるという独自の「敬天」思想を確立し、自らの日々の行動を記録する「万善(まんぜん)簿(ぼ)」により敬天の実践を行った。また、漢学の教授にあたっては詩作を奨励し、情操の涵養をめざした。淡窓は『約言』『迂(う)言(げん)』等を著述し、『淡窓日記』、自伝である『懐旧楼筆記』を遺した。それらは、廣瀬家に伝来する他の史資料とともに「広瀬先賢文庫」(昭和44年建築)に収められている。 廣瀬家は初代五左衛門が延宝元年(1673)に筑前国博多から日田に移ったことに始まるとされ、以後、隣接地を買取り、敷地を拡大していった。淡窓が誕生する時期には、通り(通称魚町通り)を挟んで「北家」と「南家」からなる現在の敷地が形成されており、伯父のもとで養育された2歳から6歳の間や福岡へ遊学した16歳から18歳の間を除き、36歳の時、堀田村に移るまでの間、淡窓は魚町の生家において生活した。また、生家を離れた後も、冠婚葬祭や咸宜園経営等の相談のため生家をたびたび訪ねていることが日記等から知られる。廣瀬家は金融業を中心に成長するが、咸宜園塾主が廣瀬家の人物によって継承された事実や、咸宜園の収入が廣瀬家の貸付資金の一部となり、経済的支援として有利な条件で運用されるなど、私塾の経営にも大きな役割を果たした。 『懐旧楼筆記』に、天保4年(1833)旧宅を増築したとの記事がみえ、その時増築した座敷や土蔵が現存している。主屋は淡窓が亡くなる年の5月に上棟され、それに先だって建てられた新座敷や土蔵も現存する。通りに面した主屋の背後に庭を挟んで土蔵が並ぶ姿は淡窓が居住した時代の構えを今日にとどめているものである。また、南家においても久兵衛の隠宅や蔵が現存し、南主屋が間口を北の通りに向け、敷地南に水路が流れる敷地の旧状をとどめている。主屋や南主屋等は居(い)蔵(ぐら)造(づくり)であるが、外壁は中塗り仕上げで、家訓である質素倹約の精神を示している。隠宅や「北家」六畳間には煎茶空間が整えられ、新座敷では能楽が上演されるなど、敷地全体に煎茶や芸能といった文化に根ざした屋敷構えがみられる。これらは、淡窓が咸宜園に移る以前の建物配置を踏襲し、改築されたもので、淡窓の思想を形成した旧宅の姿を今日に伝えているものである。敷地や建物配置の変遷を廣瀬家所蔵の絵図や日記類、建物棟木墨書等から追跡できる点は廣瀬淡窓旧宅の価値を一層高めている。屋敷内の建物の一部は現在「廣瀬資料館」として、文書以外の文物の収集・保管・公開を行っている。 このように廣瀬淡窓旧宅は廣瀬淡窓の教育、思想、学芸の全般にわたる形成と展開に大きく影響を与えたもので、往時の構えをよくとどめていることから、追加指定するとともに名称を変更し、保護の万全を図ろうとするものである。