国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
登録記念物
主情報
名称
:
岡倉天心旧宅・庭園及び大五浦・小五浦
ふりがな
:
おかくらてんしんきゅうたく・ていえんおよびおおいづらこいづら
岡倉天心旧宅と前庭(茨城大学提供)
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種別1
:
登録記念物(名勝地関係)
種別2
:
登録記念物(遺跡関係)
時代
:
明治
年代
:
西暦
:
面積
:
42467.28 m
2
その他参考となるべき事項
:
登録番号
:
登録年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
追加年月日
:
登録基準
:
所在都道府県
:
茨城県
所在地(市区町村)
:
茨城県北茨城市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
岡倉天心旧宅と前庭(茨城大学提供)
解説文:
詳細解説
近代日本美術の発展や文化財保護に多大な功績を残した岡倉天心(本名覚三(ほんみょうかくぞう),1862~1913)が転居した地。邸内には現在,居宅,長屋門,六角堂をはじめ,天心が造った庭園がある。居宅から見える大五浦・小五浦は大小の岩礁が点在する豊かな風致景観を成している。
岡倉天心は日本の美術思想家で,明治31年(1898)に東京美術学校校長を辞職後,日本美術院を設立し,明治36年に五浦に転居した。その後約1年間のボストン滞在から戻った天心は邸宅の大改造に着手した。
天心邸の敷地は,なだらかに海へと傾斜する固い岩盤上にあり,一部はダイナマイトを用いて造成された。当時の建物のうち,母屋の中心部分や長屋門は現在も残る。また,眼前に広がる太平洋(大五浦・小五浦)とそこに点在する岩礁も庭園の要素として取り込まれている。
以上のように,本遺跡・庭園は日本近代の美術の歴史及び造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
岡倉天心旧宅と前庭(茨城大学提供)
小五浦方面から見た岡倉天心旧宅庭園(茨城大学提供)
写真一覧
岡倉天心旧宅と前庭(茨城大学提供)
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小五浦方面から見た岡倉天心旧宅庭園(茨城大学提供)
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解説文
近代日本美術の発展や文化財保護に多大な功績を残した岡倉天心(本名覚三(ほんみょうかくぞう),1862~1913)が転居した地。邸内には現在,居宅,長屋門,六角堂をはじめ,天心が造った庭園がある。居宅から見える大五浦・小五浦は大小の岩礁が点在する豊かな風致景観を成している。 岡倉天心は日本の美術思想家で,明治31年(1898)に東京美術学校校長を辞職後,日本美術院を設立し,明治36年に五浦に転居した。その後約1年間のボストン滞在から戻った天心は邸宅の大改造に着手した。 天心邸の敷地は,なだらかに海へと傾斜する固い岩盤上にあり,一部はダイナマイトを用いて造成された。当時の建物のうち,母屋の中心部分や長屋門は現在も残る。また,眼前に広がる太平洋(大五浦・小五浦)とそこに点在する岩礁も庭園の要素として取り込まれている。 以上のように,本遺跡・庭園は日本近代の美術の歴史及び造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。
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詳細解説
岡倉天心は日本の美術思想家で、明治23年(1890)に東京美術学校校長となった。明治31年(1898)に校長を辞職し、同年に日本美術院を設立したが、明治36年(1903)に東京の自宅を引き払い、五浦の地に転居した。その後、約1年間のボストン滞在から帰国した天心は、五浦の邸宅の大改造に着手した。明治39年(1906)には東京にあった日本美術院の絵画部門を五浦に移転し、横山大観らが天心邸の近隣で創作活動を開始した。 天心は大正2年(1913)に亡くなったが、敷地は遺族が引き継ぎ、昭和17年(1942)から財団法人岡倉天心偉績顕彰会が管理者となった。その後、昭和30年(1955)に顕彰会から茨城大学に寄付され、同年より茨城大学五浦美術文化研究所となっている。 天心邸の敷地は、なだらかに海へと傾斜する固い岩盤上にあり、一部はダイナマイトを用いて造成された。当時の建物のうち、母屋の中心部分や長屋門は現在も残り、母屋の前には芝地が広がる。また、一部岩盤を掘りくぼめて設けられた園路や、岬の突端に建てられた六角堂等、既存の地形や地質的特徴を活かした特色ある空間がつくられ、さらに、岩礁を含めた大五浦・小五浦の海岸も庭園の要素として取り込まれている。なお、六角堂は平成23年の東日本大震災に伴う津波で流出したが、平成24年に同位置に再建された。 以上のように、本遺跡・庭園は、大五浦・小五浦の風致景観を含め、天心が明確な意図を持って創造した空間の骨格部分がよく残っており、近代の日本美術の歴史及び造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。