国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
登録記念物
主情報
名称
:
旧南部氏別邸庭園
ふりがな
:
きゅうなんぶしべっていていえん
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種別1
:
登録記念物(名勝地関係)
種別2
:
時代
:
明治
年代
:
西暦
:
面積
:
18893.92 m
2
その他参考となるべき事項
:
登録番号
:
登録年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
追加年月日
:
登録基準
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所在都道府県
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岩手県
所在地(市区町村)
:
岩手県盛岡市
保管施設の名称
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所有者種別
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所有者名
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管理団体・管理責任者名
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解説文:
詳細解説
旧南部氏別邸庭園は,盛岡市街地の北,中津川の右岸に位置する。この地には江戸時代初期に盛岡藩の「御薬園(おやくえん)」が設けられたが,同園の廃止後に御殿や庭園が造られ,代々の藩主の別荘地となった。明治維新後建物は取り壊され,庭園も荒廃したが,明治41年(1908)に南部家第43代当主南部利(とし)淳(あつ)により,現在まで残る木造建築と庭園が整備された。
愛宕山に隣接する平坦な土地につくられた庭園は,3つの中島が浮かぶ広い池を中心とし,池の周囲及び中島には様々な意匠の燈籠類やマツ,モミジ等の樹木が配されている。
幾度か改修され,第二次世界大戦後には庭園の一部が失われたものの,江戸時代の絵図等も残っており,その変遷を追うことができる。
以上のように,旧南部氏別邸庭園は,江戸時代以降の東北地方における造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
旧南部氏別邸庭園は,盛岡市街地の北,中津川の右岸に位置する。この地には江戸時代初期に盛岡藩の「御薬園(おやくえん)」が設けられたが,同園の廃止後に御殿や庭園が造られ,代々の藩主の別荘地となった。明治維新後建物は取り壊され,庭園も荒廃したが,明治41年(1908)に南部家第43代当主南部利(とし)淳(あつ)により,現在まで残る木造建築と庭園が整備された。 愛宕山に隣接する平坦な土地につくられた庭園は,3つの中島が浮かぶ広い池を中心とし,池の周囲及び中島には様々な意匠の燈籠類やマツ,モミジ等の樹木が配されている。 幾度か改修され,第二次世界大戦後には庭園の一部が失われたものの,江戸時代の絵図等も残っており,その変遷を追うことができる。 以上のように,旧南部氏別邸庭園は,江戸時代以降の東北地方における造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。
詳細解説▶
詳細解説
旧南部氏別邸庭園は、盛岡市街地の北、市内を流れる中津川の右岸に位置する。この地には元々江戸時代初期に盛岡藩の「御薬園」が設けられたが、同園が廃止された後に、御殿・御茶屋等の建築及び庭園の整備が行われ、代々の藩主が別荘地「下小路御屋敷」として利用した。江戸時代後期の庭園の様子は、文化9年(1812)に描かれた『下小路御屋敷御絵図(下小路邸図)』から知ることができる。 明治維新後は建物が取り壊され、庭園も荒廃したが、明治41年(1908)に南部氏第43代当主南部利淳によって、現在まで残る木造建築及び庭園が整備され、その際に造園家の長岡安平が庭園の改修原案を作成した。実際には、盛岡の内田徳太郎という庭師が長岡の設計意図を踏まえつつ図案を見直し、施工を行ったが、これは長岡の案では費用がかかりすぎることが理由であった。 南部氏別邸は、その後、昭和28年(1953)に南部氏と岩手県との間で結ばれた賃貸借契約によって「岩手県産業文化館」となり、昭和30年(1955)の盛岡市への移管を経て「盛岡市公民館」となった。昭和55年(1980)の建物の増改築の際には、庭園の池の護岸修理・植栽等の整備も行われた。 庭園は、愛宕山に隣接する平坦な土地に造られており、広い池泉が中心となっている。第二次世界大戦後に敷地の一部が失われ現在の規模となったが、愛宕山と池から構成される空間の基本構造は江戸時代より現在に至るまで踏襲され、明治末期に庭園と一体的に整備された主屋も残る。池泉には3つの中島が浮かび、池泉の周囲及び中島には、山燈籠・雪見燈籠等の様々な意匠の石燈籠類や多数のマツ・モミジ等の樹木が配されている。 以上のように、旧南部氏別邸庭園は、江戸時代の大名庭園を基にしつつ、明治末期の改修等を経て今日まで残り、江戸時代以降の東北地方における造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。