国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
登録記念物
主情報
名称
:
半田氏庭園
ふりがな
:
はんだしていえん
半田氏庭園(池泉)
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種別1
:
登録記念物(名勝地関係)
種別2
:
時代
:
江戸~現代
年代
:
西暦
:
面積
:
2358.79 m
2
その他参考となるべき事項
:
登録番号
:
登録年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
追加年月日
:
登録基準
:
所在都道府県
:
長野県
所在地(市区町村)
:
長野県長野市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
半田氏庭園(池泉)
解説文:
詳細解説
江戸時代に真田氏の城下町として発展した松代には,当時の計画的な街路・町割とともに,「カワ」・「泉水(せんすい)路(ろ)」・「セギ」から成る一連の水系が良好に遺存し,城下町の生活と密接に関連して多様な役割を果たしてきた。そのうち,今井氏庭園・半田氏庭園・宮澤氏庭園は,神田川から取水された一つの「泉水路」により連続する一群の庭園で,日常的な「生活の庭」であり,極めて質素な意匠・形態に特質がある。半田氏庭園には,明治初期に養(よう)鯉(り)池(いけ)などがあったことが知られている。昭和38年(1963)以降に半田氏の所有となり,それ以降は大幅な庭園の改築はなかったとされる。主屋南側の庭園の中央には園池があり,その南側の築山には三尊(さんぞん)石(せき)が組まれている。一つの「泉水路」でつながる庭園として松代の造園文化の発展に寄与した意義深い事例であり,造園文化に果たす役割は大きい。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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半田氏庭園(池泉)
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半田氏庭園(池泉)
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解説文
江戸時代に真田氏の城下町として発展した松代には,当時の計画的な街路・町割とともに,「カワ」・「泉水(せんすい)路(ろ)」・「セギ」から成る一連の水系が良好に遺存し,城下町の生活と密接に関連して多様な役割を果たしてきた。そのうち,今井氏庭園・半田氏庭園・宮澤氏庭園は,神田川から取水された一つの「泉水路」により連続する一群の庭園で,日常的な「生活の庭」であり,極めて質素な意匠・形態に特質がある。半田氏庭園には,明治初期に養(よう)鯉(り)池(いけ)などがあったことが知られている。昭和38年(1963)以降に半田氏の所有となり,それ以降は大幅な庭園の改築はなかったとされる。主屋南側の庭園の中央には園池があり,その南側の築山には三尊(さんぞん)石(せき)が組まれている。一つの「泉水路」でつながる庭園として松代の造園文化の発展に寄与した意義深い事例であり,造園文化に果たす役割は大きい。
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詳細解説
江戸時代に真田氏の城下町として発展した松代は、南の河東山地から千曲川南岸にかけて広がる扇状地に位置し、現在でも当時の計画的な街路・町割などが良好に残されている。 特に、城下町の東西両端を北流する関屋川及び神田川からは、街路沿いに網の目のようにカワと呼ぶ水路が配置され、武家屋敷をはじめ一群の住宅内に造られた多くの園池に泉水路を通じて水が導かれている。また、街路と並行して、居宅の背後に当たる敷地境界には、セギと呼ぶ今ひとつの水路も設けられている。これらの一連の水系は、街区・町割との緊密な関係の下に形成された城下町の骨格を表すのみならず、園池への導水、農業用水及び防火用水、夏季における散水、冬季における融雪、洪水防止のための遊水など、城下町の生活と密接に関連して多様な役割をも果たし、現在の城下町に生活する人々にとって欠くことのできない水辺の空間として継承されてきた。 特に泉水路で繋がる一群の武家屋敷の庭園は、武士の日常的な暮らしと密着した「生活の庭」であり、巨石や銘木などを伴わない極めて質素な意匠・形態に特質がある。園池では観賞と食用を兼ねて養鯉が行われ、食器洗いや洗面のために洗い場が設けられたほか、周囲の庭樹には食用の果樹等が好んで用いられた。また、象山をはじめ、周囲の山並みの眺望を意識した園池の風致にも特徴がある。 その中でも半田氏庭園は武家屋敷地区の代官町の通りに東面し、南側に隣接する敷地の庭園から泉水路により引き込まれた水は、半田氏庭園を経て北側に隣接する宮澤氏庭園へと流れる。半田氏庭園の敷地は江戸時代には長谷川氏の屋敷地であり、明治初期には養鯉池などがあったことが知られる。昭和38年以降に半田氏の所有となり、それ以降は大幅な庭園の改築はなかったとされる。主屋南側の庭園の中央には園池があり、その南側の築山には三尊石が組まれている。園池の護岸付近にはツツジが、南岸にはマツ・ウメ・カキ等が植えられている。 以上のように、半田氏庭園は松代の城下町の武家屋敷地区に位置する庭園で、「泉水路」とともに同一水系の下に連続する一群の庭園のひとつとして、松代の造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。