国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
登録記念物
主情報
名称
:
南氏庭園
ふりがな
:
みなみしていえん
南氏庭園
写真一覧▶
地図表示▶
解説表示▶
種別1
:
登録記念物(名勝地関係)
種別2
:
時代
:
明治~現代
年代
:
西暦
:
面積
:
3146.82 m
2
その他参考となるべき事項
:
登録番号
:
登録年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
追加年月日
:
登録基準
:
所在都道府県
:
大阪府
所在地(市区町村)
:
大阪府阪南市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
南氏庭園
解説文:
詳細解説
南氏庭園は,大阪の阪南市南東部に所在する旧家の庭園である。南氏は江戸時代の豪農に由来し,明治期は地域の連合戸長を務めた。東西約70m,南北約50mの住宅敷地は,居住区域と垣内(かいと)から成る。居住区域には,明治22年(1889)頃に建てられた主屋を中心に,表玄関・座敷棟が建つ。庭園は,座敷棟南の主庭,北の露地庭を中心とする。特に主庭は築山,和泉(いずみ)砂岩(さがん)の滝(たき)石組(いしぐ)みなどから成る枯(かれ)山水(さんすい)庭園(ていえん)で,明治前期の築造の頃から手を加えられつつ,次第に現在の形態にまで変容してきたものである。また,垣内は大阪近郊の農家によく見られた多目的な作業空間の遺存例として貴重である。敷地の全体には,樹齢約400年のヤマモモなどの古木も残されている。南氏庭園は,近代における大阪泉南地方の造園文化の発展に寄与してきた意義深い事例である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
南氏庭園
南氏庭園
写真一覧
南氏庭園
写真一覧
南氏庭園
Loading
Zeom Level
Zoom Mode
解説文
南氏庭園は,大阪の阪南市南東部に所在する旧家の庭園である。南氏は江戸時代の豪農に由来し,明治期は地域の連合戸長を務めた。東西約70m,南北約50mの住宅敷地は,居住区域と垣内(かいと)から成る。居住区域には,明治22年(1889)頃に建てられた主屋を中心に,表玄関・座敷棟が建つ。庭園は,座敷棟南の主庭,北の露地庭を中心とする。特に主庭は築山,和泉(いずみ)砂岩(さがん)の滝(たき)石組(いしぐ)みなどから成る枯(かれ)山水(さんすい)庭園(ていえん)で,明治前期の築造の頃から手を加えられつつ,次第に現在の形態にまで変容してきたものである。また,垣内は大阪近郊の農家によく見られた多目的な作業空間の遺存例として貴重である。敷地の全体には,樹齢約400年のヤマモモなどの古木も残されている。南氏庭園は,近代における大阪泉南地方の造園文化の発展に寄与してきた意義深い事例である。
詳細解説▶
詳細解説
南氏庭園は、阪南市南東部に所在する旧家の庭園である。南氏は江戸時代に当地(天領)の庄屋を務めた豪農に由来し、明治以降は東鳥取村の初代村長、大阪府議会議員を務めるなど、地域の実力者として地位を維持してきた。 住宅の敷地は東西約70m、南北約50mのほぼ矩形を成し、東半の50m四方を占める居住区域と西半の東西約20m、南北約50mを占める垣内(かいと)と呼ぶ区域に区分することができる。 居住区域の中央やや東寄りには明治22年(1889)頃の建造とされる主屋が南面して建ち、その南西には表玄関、玄関の西方には座敷棟が建つ。また、明治初期の移築とされる表門、大正10年頃の辰巳蔵、幕末の外蔵、江戸後期の内蔵なども存在する。 庭園は、主として①表門から主屋へと矩折れに延びる石敷き導入路を中心とする「主屋前庭」、②主屋及び座敷棟に南面する「主庭」、③かつては茶室が存在した座敷棟北側の「露地庭」、④露地庭のさらに北西側の稲荷祠を中心とする「北西庭」、⑤東の通用口から台所への導入路を中心とする狭隘な「東庭」の5つの部分から成る。 そのうち、特に「主庭」は南北方向の生け垣によって「主屋前庭」と区画され、座敷棟に南面して築造された築山、和泉砂岩の巨石を組んだ枯滝などから成る枯山水庭園である。座敷棟の前面に延びる飛び石や築山の背後の小径などを巡ることにより、全体を回遊できるように造られている。「主庭」は、明治前期の頃に築造が開始され、その後も手を加えられつつ、次第に現在の形態にまで変容してきたものである。 垣内は、大阪近郊の農家によく見られた多目的な作業空間の遺存例として貴重である。幕末に建造され、作業小屋としても使われてきた奉公人の住居1棟が建つほか、ほぼ同時期に移植されたと考えられるクスノキ、その他の果樹に囲まれて現在もその形姿をとどめている。また、敷地の全体には、樹齢約400年のヤマモモをはじめ、クスノキ、イヌマキ、クロガネモチなどの古木も残されている。 以上のように、南氏庭園は江戸時代の豪農から近代の実力者へと地位を維持してきた大阪泉南地方の旧家の庭園であり、近代におけるこの地方の造園文化の発展に寄与してきた意義深い事例である。