国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
登録記念物
主情報
名称
:
七里岩
ふりがな
:
しちりいわ
七里岩(屏風岩)
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種別1
:
登録記念物(名勝地関係)
種別2
:
時代
:
年代
:
西暦
:
面積
:
4731.0 m
2
その他参考となるべき事項
:
登録番号
:
登録年月日
:
2015.10.07(平成27.10.07)
追加年月日
:
登録基準
:
所在都道府県
:
山梨県
所在地(市区町村)
:
山梨県韮崎市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
七里岩(屏風岩)
解説文:
詳細解説
山梨・長野県境に位置する八ヶ岳(最高標高2,899m)の南麓には,約20万年前の山体崩壊による韮崎岩屑流(にらさきがんせつりゅう)が南北約25km,東西約18kmにわたって大規模な台地を形成している。釜(かま)無川(なしがわ)の侵食により比高40~150mもの断崖地形が連続し,総長が約30kmにも及ぶことから「七里岩」の呼称が定着した。暗灰色輝石安山岩(きせきあんざんがん)・凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)などから成る断崖絶壁は要害の地を成していたため,甲斐国の大名武田勝頼(たけだかつより)(1546~82)は七里岩に臨む台地の突端部に新府城を築城した。また,岩壁の独特の風致景観は和歌・俳句の対象ともなり,江戸時代後期の一条信郷(いちじょうのぶさと)による『詠不二山百首歌(えいふじさんひゃくしゅうた)』には「七里のいはね」と「富士の根」とが重なり合う美景を詠った和歌を収めるほか,明治前期の俳句にも「七里につらなりたてる岩垣」と詠んだものがある。今回登録する範囲は,七里岩の中でも史跡新府城跡の北西部に近接の屏風岩と呼ばれる部分である。七里岩は,韮崎の歴史・伝統にゆかりの深い景勝地として長く親しまれてきた意義深い事例である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
七里岩(屏風岩)
七里岩(七里岩と八ヶ岳)
七里岩(屏風岩と富士山)
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七里岩(屏風岩)
写真一覧
七里岩(七里岩と八ヶ岳)
写真一覧
七里岩(屏風岩と富士山)
解説文
山梨・長野県境に位置する八ヶ岳(最高標高2,899m)の南麓には,約20万年前の山体崩壊による韮崎岩屑流(にらさきがんせつりゅう)が南北約25km,東西約18kmにわたって大規模な台地を形成している。釜(かま)無川(なしがわ)の侵食により比高40~150mもの断崖地形が連続し,総長が約30kmにも及ぶことから「七里岩」の呼称が定着した。暗灰色輝石安山岩(きせきあんざんがん)・凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)などから成る断崖絶壁は要害の地を成していたため,甲斐国の大名武田勝頼(たけだかつより)(1546~82)は七里岩に臨む台地の突端部に新府城を築城した。また,岩壁の独特の風致景観は和歌・俳句の対象ともなり,江戸時代後期の一条信郷(いちじょうのぶさと)による『詠不二山百首歌(えいふじさんひゃくしゅうた)』には「七里のいはね」と「富士の根」とが重なり合う美景を詠った和歌を収めるほか,明治前期の俳句にも「七里につらなりたてる岩垣」と詠んだものがある。今回登録する範囲は,七里岩の中でも史跡新府城跡の北西部に近接の屏風岩と呼ばれる部分である。七里岩は,韮崎の歴史・伝統にゆかりの深い景勝地として長く親しまれてきた意義深い事例である。
詳細解説▶
詳細解説
山梨県と長野県との県境に位置する八ヶ岳(最高標高2,899m)の南麓には、約20万年前の山体崩壊によって生じた韮崎岩屑流が、南北約25km、東西約18kmにわたって大規模な台地を形成している。台地の西南端は、西を流れる釜無川の侵食により比高40~150mもの断崖地形が連続し、その総長が約30kmにも及ぶことから「七里岩」の呼称が定着した。 暗灰色輝石安山岩及び凝灰角礫岩などから成る断崖絶壁は峻厳な要害の地を形成していたため、甲斐国の大名であった武田勝頼(1546~82)は七里岩に臨む台地の突端部に新府城を築城した。また、江戸時代後期以降には、岩壁の独特の風致景観が和歌・俳句の対象ともなった。江戸時代後期の一条信郷による『詠不二山百首歌』には、「七里のいはね」と「富士の根」とが重なり合う美景を詠った和歌を収めるほか、明治前期の俳句にも「七里につらなりたてる岩垣」と詠んだものがある。 七里岩の随所には独特の形態を持つ岩体・洞窟が存在し、江戸時代の『甲斐国史』・「甲州街道分間延絵図」(以下、「分間延絵図」という。)には個々の名称・位置が示されている。それらの中には、信仰の対象として小祠を設けたものがあるほか、文化6年(1809)に甲斐国に滞在した江戸幕府侍医の渋江長伯が紀行文『官遊紀勝』において紹介したものなどがある。 今回登録する範囲は、七里岩の中でも史跡新府城跡の北西部に近接の屏風岩と呼ばれる部分である。連続する断崖から西南の方向に約40m突き出た独立岩体で、釜無川の氾濫原との比高は50~60mである。古く「分間延絵図」にも登場し、岩体の頂部には弘化2年(1845)の記念銘を持つ安産祈願の石祠を祀る。 七里岩は韮崎の歴史・伝統にゆかりの深い景勝地として長く親しまれてきた意義深い事例である。