国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
登録記念物
主情報
名称
:
南昌荘庭園
ふりがな
:
なんしょうそうていえん
南昌荘庭園
写真一覧▶
解説表示▶
種別1
:
登録記念物(名勝地関係)
種別2
:
時代
:
明治
年代
:
西暦
:
面積
:
3610.84 m
2
その他参考となるべき事項
:
登録番号
:
登録年月日
:
2015.01.26(平成27.01.26)
追加年月日
:
登録基準
:
所在都道府県
:
岩手県
所在地(市区町村)
:
岩手県盛岡市
保管施設の名称
:
所有者種別
:
所有者名
:
管理団体・管理責任者名
:
南昌荘庭園
解説文:
詳細解説
南昌荘は,実業家瀬川安五郎(せがわやすごろう)邸宅として明治18年(1885)に盛岡市街地の南,北上川左岸の河岸段丘上に建設され,庭園は明治20年までに盛岡の庭師が作庭したと伝わる。庭園は主屋の南側に位置し,主屋から池泉の広がる南東部に向かって緩やかに傾斜する地形を巧みに取り入れ,主屋内の中二階に庭園全体を見渡せる「南昌の間(なんしょうのま)」を配置することで,着座観賞を重視した設計となっている。池泉は周囲に巡らされた園路により周遊が可能で,西池側の園路上には茶室「幽泉(ゆうせん)」が組み込まれている。主屋前の平場には作庭時の庭園を描いた『盛岡市実地明細図(もりおかしじっちめいさいず)』(明治27年発行)にも見られる高砂松(たかさごまつ)が植栽されている。明治末期と昭和初期に主屋の増改築や庭園に手が加えられたが『盛岡市実地明細図』に描かれた作庭時の空間構成が良好に残されている。
本庭園は,池泉周遊と主屋からの着座という異なる観賞方法に基づく作庭時の空間構成を良好に残し,現在も市民による文化活動の場として活用されるなど,近代以降,現在に至るまで盛岡地方の造園文化の発展に寄与してきた意義深い事例である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
南昌荘庭園
写真一覧
南昌荘庭園
解説文
南昌荘は,実業家瀬川安五郎(せがわやすごろう)邸宅として明治18年(1885)に盛岡市街地の南,北上川左岸の河岸段丘上に建設され,庭園は明治20年までに盛岡の庭師が作庭したと伝わる。庭園は主屋の南側に位置し,主屋から池泉の広がる南東部に向かって緩やかに傾斜する地形を巧みに取り入れ,主屋内の中二階に庭園全体を見渡せる「南昌の間(なんしょうのま)」を配置することで,着座観賞を重視した設計となっている。池泉は周囲に巡らされた園路により周遊が可能で,西池側の園路上には茶室「幽泉(ゆうせん)」が組み込まれている。主屋前の平場には作庭時の庭園を描いた『盛岡市実地明細図(もりおかしじっちめいさいず)』(明治27年発行)にも見られる高砂松(たかさごまつ)が植栽されている。明治末期と昭和初期に主屋の増改築や庭園に手が加えられたが『盛岡市実地明細図』に描かれた作庭時の空間構成が良好に残されている。 本庭園は,池泉周遊と主屋からの着座という異なる観賞方法に基づく作庭時の空間構成を良好に残し,現在も市民による文化活動の場として活用されるなど,近代以降,現在に至るまで盛岡地方の造園文化の発展に寄与してきた意義深い事例である。
詳細解説▶
詳細解説
南昌荘庭園は、盛岡市街地の南、市内を流れる北上川左岸の河岸段丘上に位置する。 南昌荘は、実業家の瀬川安五郎邸宅として明治18(1885)年に建設され、庭園は明治20(1887)年までに盛岡の庭師とされる阿部仁太郎と川目末松が作庭したと伝わる。その後、邸宅は5代盛岡市長の大矢馬太郎、盛岡銀行頭取の金田一勝定などの手に渡り、主屋の増改築や庭園に手が加えられたが、創建当初の主屋や作庭当時の庭園の詳細は明治27(1894)年発行の『盛岡市実地明細図』から窺い知ることができる。明治41(1908)年には原敬が欧米視察前に滞在したほか、翌明治42(1909)年には、盛岡を訪れた伊藤博文と韓国皇太子の盛大な園遊会が行われるなど、迎賓館的な利用もされた。 「南昌荘」の名称は、昭和14(1939)年に別荘として購入した呉服卸商の初代赤澤多兵衛が、親交のあった書家の新渡戸仙岳に依頼して命名したもので、主屋から南西約11.2kmに位置する標高848mの「南昌山」を望むことができたことによる。 北西部の出入口から飛び石を配した導入路を中心とする前庭の正面には、一階の「松鶴の間」・「孔雀の間」・「鳩の間」・「水月の間」・「香葉の間」の5部屋と中二階の「南昌の間」から成る主屋が建つ。作庭時の絵図と比較すると「南昌の間」以外は改変されており、屋根構造や配置に現況と相違がある。 庭園は主屋の南側に位置し、主屋から池泉の広がる南東部に向かって緩やかに傾斜する地形を巧みに取り入れ、主屋内の中二階に庭園全体を見渡せる「南昌の間」を配置することで、着座鑑賞を重視した設計となっている。護岸石組による池泉は、周囲に巡らされた礫敷きと飛び石を配した園路により周遊が可能で、主屋前から東南に向かって舌状に広がる平場により東西に分かれている。この平場には『盛岡市実地明細図』にもみられる「高砂松」が植栽されており、その南側には太鼓橋と藤棚が置かれ、池泉、高砂松と併せて良好な景観を形成している。 西池中央には切石を組んだ石橋が架けられ、中島と連結されており、西池周囲の園路上には昭和30年代建築の茶室「幽泉」が建つ。また、池泉の周囲には景石や山燈篭、雪見灯籠、観音菩薩像等の様々な石造物が配され、その大半は赤澤多兵衛の収集と伝わる。 以上のように、南昌荘庭園は、明治期の盛岡で活躍した政財界の著名人・商人等の旧邸宅の庭園で、明治末期と昭和初期に建物や庭園の改変等を経ているものの、池泉周遊と主屋からの着座という異なる観賞方法を前提とする空間設計に基づく作庭時の空間構成を良好に残し、現在も市民による文化活動の場として活用されるなど、近代以降、現在に至るまで盛岡地方の造園文化の発展に寄与してきた意義深い事例である。