国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
天草市﨑津・今富の文化的景観
ふりがな
:
あまくさしさきつ・いまとみのぶんかてきけいかん
石積護岸に設けられたカケ
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
1017.6 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2011.02.07(平成23.02.07)
追加年月日
:
2012.09.19(平成24.09.19)
選定基準
:
所在都道府県
:
熊本県
所在地(市区町村)
:
熊本県天草市
石積護岸に設けられたカケ
解説文:
詳細解説
東シナ海に開いた羊角湾北岸に位置する﨑津は、歴史的に流通・往来の拠点として、現在は主に漁港として機能している。漁業に伴う作業場や漁船の係留施設として海に張り出して設置されるカケ等、独特の生活・生業上の施設を伴う価値の高い漁村景観。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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石積護岸に設けられたカケ
漁村景観
トウヤ
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解説文
東シナ海に開いた羊角湾北岸に位置する﨑津は、歴史的に流通・往来の拠点として、現在は主に漁港として機能している。漁業に伴う作業場や漁船の係留施設として海に張り出して設置されるカケ等、独特の生活・生業上の施設を伴う価値の高い漁村景観。
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詳細解説
天草下島の南西部、東シナ海に開口した溺れ谷形の羊(よう)角(かく)湾内に位置する﨑津は、標高100メートル前後の後背山に囲まれた狭隘な入江に形成される漁村集落である。港内は比較的大型の船舶も入港できる水深を持つ一方、港奥部の今(いま)富(どみ)川河口では干潟が発達しており、江戸時代からの干拓によって農地が展開している。﨑津集落は平地が少ないため家屋が密集して立地しており、後背山の斜面には共同墓地や畑地が形成されている。山頂には海の祭神である金比羅宮が祭られるなど、海からの眺望を意識した信仰施設の配置が認められる。 﨑津は天然の良港であるという地形的特性を活かし、古くから流通・往来の拠点として機能してきた。16世紀後半の日本を記録したルイス・フロイスの『日本史』において、外国船が当地へ入港したことについて言及されているほか、唐船の漂着等に関する記録も残る。江戸時代になると、不審船や漂着船に対処するため、遠見番などの長崎奉行所管轄の地役人も置かれた。また、特権的に漁業が認められた定(じよう)浦(うら)の一つとして賑わうとともに、近隣から集積する米や様々な物資を長崎に回送する貿易港として、重要な役割を果たした。そのため、石積み護岸の構築など港湾整備も重点的に行われたとされる。近代になると、長崎航路の開設や近隣における炭鉱の操業などにより人や物資の往来が増加し、木賃宿・料亭・映画館等が立地する、船客や鉱夫等で賑わう港町としての地位を確立した。 﨑津で古くから盛んであった漁業は、漁法の近代化や漁船の大型化により昭和40年代に最盛期を迎える。特に羊角湾内で盛んであったチリメン漁は人手を多く要するため、﨑津浦東側の向江区や北の今富等から多数の乗り子が網元へ集まり、共同して漁が行われた。平地が狭い﨑津において作業場を確保するため、海に張り出して設けられる「カケ」も、この頃に大型化したとされる。こうした漁業をはじめとする生活・生業上の共同作業が、当該地域の紐帯として機能してきたと考えられ、隣接する家同士で軒を供出して形成される、「トウヤ」と呼ばれる集落から海へ繋がる小路が現在も多数維持されていることにも、当該地域の共同体が強固なものであることが確認される。 このように、「天草市﨑津の漁村景観」は、交易や石炭搬出など流通・往来の拠点として、また豊かな漁業資源が集積する漁港としての機能を有する集落が、「カケ」や「トウヤ」といった独特の生活・生業上の施設を伴いつつ成立することによって形成された、価値の高い文化的景観である。しかしながら、近年は少子高齢化や漁業不振による後継者不足等により徐々に地域共同体も変容しつつある。そのため、当該地域における生活・生業を維持し当該文化的景観を保存・活用するため、天草市は文化的景観保存調査を実施し文化的景観保存計画を策定した。これらに基づき選定申出が行われた当該文化的景観について、重要文化的景観に選定しその保存・活用を図るものである。 H24.9.19追加選定及び名勝変更 天草下島の南西部、羊角(ようかく)湾の北岸に位置する﨑津は、交易及び石炭搬出など流通・往来の拠点として発展を遂げたのみならず、豊かな漁業資源が集積する漁村としても機能してきた集落である。特に、各家屋が位置する岸壁から海面上に張り出した「カケ」と呼ばれる木造の作業場、家と家との間の軒下を通り海へと通じる「トウヤ」と呼ばれる小道などが随所に見られ、漁村における水辺を利用した独特の文化的景観を形成していることから、平成23年2月7日に「天草市﨑津の漁村景観」として重要文化的景観に選定された。 﨑津の入江の奥に位置する今富では、今富川の支流である大川内(おおかわち)川(がわ)が形成した東の大(おお)山(やま)迫(さこ)、及び西河内(にしかわち)川(がわ)が形成した西の西河内(にしかわち)迫(さこ)の2つの谷地形を中心に農村が立地する。集落の周囲には農地・雑木林・ため池・小河川等が展開し、シイ・カシ類を主とする照葉樹林の下、変化に富む動・植物相が見られる。 この地にいつの頃から人々が居住し始めたかは定かでないが、少なくとも中世末期には、平地が極めて少ない地形の下に農業を営んでいたことが判明している。江戸時代初期の海岸線は二つの迫が合流する今富神社付近にまで及んでいたとされるが、江戸時代後期以降に進められた数次に及ぶ干拓により農地が拡大された。水田では稲作、畑地では麦・甘藷の栽培が行われたが、一戸あたりの耕地面積は少なく、零細な農業経営であった。今富周辺の山林から産出される薪・炭・木材などは﨑津へと供給されたほか、石炭採掘坑道の建築用材が隣村の一町田(いっちょうだ)へと搬出された。製品の運搬及び農耕には牛が用いられたため、個々の住居では、母屋と牛小屋との組み合わせによる屋敷構えが成立した。今富から﨑津へは農産物・林産物のほか、漁船の乗り子としての労働力も供給された。他方で、「メゴイナイ」と呼ばれる﨑津の漁家の婦人が水産品の販売に近隣集落へ出かけており、今富でも野菜・米などと物々交換が行われていた。今日でも、信仰及び婚姻をも含め、生活・生業のあらゆる側面において、﨑津と今富との間には密接な関係が維持されている。 中世にキリスト教布教の中心地の一つであった今富では、慶長19年(1614)の徳川幕府による禁教後も、﨑津と同様に潜伏キリシタンが存在したとされる。明治6年(1873)、政府により禁教が解かれると、明治14年(1881)には近隣集落との陸上交通の結節点であった今富に教会が設置されたが、カクレキリシタンの結束が固く、改宗は進まなかった。現在も、集落及びその周辺には、ポルトガル語で「神父」を意味する「パードレ」が転訛したとされる「ウマンテラサマ」という信仰の山、及びカクレキリシタン組織の指導者である「水方(みずかた)」が聖水を汲んだ場所など、カクレキリシタンの信仰に関わる場所・伝承地が残されている。 このように、﨑津・今富は、歴史的に流通・往来の拠点であるとともに、カケ・トウヤなど独特の土地利用の在り方を示す﨑津の漁村景観、及び近世以降の干拓により農地を広げつつ山裾に集落を営んできた今富の農村景観による一体の文化的景観が形成されている。その中でも今富は、狭隘な谷地形において干拓により農地を拡大する一方、広大な山林では薪・木材の生産及び炭焼きを行うなど、天草下島の随所の谷地形に展開する土地利用の典型的な形態を示すことから、重要文化的景観に追加選定し、その保存・活用を図ろうとするものである。