国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
最上川の流通・往来及び左沢町場の景観
ふりがな
:
もがみがわのりゅうつう・おうらいおよびあてらざわまちばのけいかん
左沢市街地全景
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
255.9 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2013.03.27(平成25.03.27)
追加年月日
:
選定基準
:
(二)茅野・牧野などの採草・放牧に関する景観地
所在都道府県
:
山形県
所在地(市区町村)
:
山形県大江町
左沢市街地全景
解説文:
詳細解説
左沢は、置賜(おきたま)盆地と村山(むらやま)盆地とをつなぐ峡谷部に位置し、朝日(あさひ)山地の山間部を東流する月(つき)布(ぬの)川(がわ)と楯(たて)山(やま)を境に北流から南流へ大きく変曲する最上川が合流する地点に展開する谷口集落である。近世に米沢(よねざわ)藩(はん)の船(ふな)屋敷(やしき)が設置されるなど河岸が所在したことにより、山間部で産出された青苧(あおそ)などの取引を中心とする最上川舟運によって町場が発達した。
左沢における町場の発展は、大きく4期に分けられる。第1期は陸上交通の要衝である楯山に山城が設置された中世で、麓には現在も「元(もと)屋敷(やしき)」の地名が残るなど山城周辺に町場が展開していたと考えられる。第2期は河岸集落として栄えた近世で、小(こ)鵜(う)飼(かい)船から艜(ひらた)船への物資の積み替え地となるなど、左沢は流通・往来の結節点として大いに栄えた。他方で、17世紀前半に左沢藩主となった酒井(さかい)直(なお)次(つぐ)により小(こ)漆(うるし)川(かわ)城(じょう)の設置及び城下町の街立てが行われ、左沢は政治都市としても発達した。第3期は鉄道が敷設された近代で、それまで最上川水運を通じて全国とつながっていた流通が、陸上交通により村山盆地の山形・寒河江(さがえ)など近傍の都市へと特化された。第4期は自動車の普及によりさらに陸上交通が発達した現在であり、昭和11年の大火を受けて、近世以来の地割りを継承しつつ道路拡張を行うなど、時代に応じた土地利用が行われている。
このように左沢の町場景観は、最上川河畔における政治都市と河岸集落という複合的な都市機能を示しつつ、中世から現代にかけての各時代の都市構造が重層した文化的景観である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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左沢市街地全景
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左沢市街地全景
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解説文
左沢は、置賜(おきたま)盆地と村山(むらやま)盆地とをつなぐ峡谷部に位置し、朝日(あさひ)山地の山間部を東流する月(つき)布(ぬの)川(がわ)と楯(たて)山(やま)を境に北流から南流へ大きく変曲する最上川が合流する地点に展開する谷口集落である。近世に米沢(よねざわ)藩(はん)の船(ふな)屋敷(やしき)が設置されるなど河岸が所在したことにより、山間部で産出された青苧(あおそ)などの取引を中心とする最上川舟運によって町場が発達した。 左沢における町場の発展は、大きく4期に分けられる。第1期は陸上交通の要衝である楯山に山城が設置された中世で、麓には現在も「元(もと)屋敷(やしき)」の地名が残るなど山城周辺に町場が展開していたと考えられる。第2期は河岸集落として栄えた近世で、小(こ)鵜(う)飼(かい)船から艜(ひらた)船への物資の積み替え地となるなど、左沢は流通・往来の結節点として大いに栄えた。他方で、17世紀前半に左沢藩主となった酒井(さかい)直(なお)次(つぐ)により小(こ)漆(うるし)川(かわ)城(じょう)の設置及び城下町の街立てが行われ、左沢は政治都市としても発達した。第3期は鉄道が敷設された近代で、それまで最上川水運を通じて全国とつながっていた流通が、陸上交通により村山盆地の山形・寒河江(さがえ)など近傍の都市へと特化された。第4期は自動車の普及によりさらに陸上交通が発達した現在であり、昭和11年の大火を受けて、近世以来の地割りを継承しつつ道路拡張を行うなど、時代に応じた土地利用が行われている。 このように左沢の町場景観は、最上川河畔における政治都市と河岸集落という複合的な都市機能を示しつつ、中世から現代にかけての各時代の都市構造が重層した文化的景観である。
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詳細解説
最上川は、山形県と福島県との県境に位置する西(にし)吾(あ)妻(づま)山(やま)の山域を源流とし、山形県内を貫流して酒田で日本海へと流入する、総長229キロメートルの一級河川である。大江町左沢はその中流部に位置し、米沢・長井盆地から五(い)百(も)川(がわ)峡谷を流れ下った最上川が、山形盆地へと流れ出た谷口に形成された町場である。五百川峡谷を北流した最上川は左沢で楯(たて)山(やま)に突き当たり、その麓で南南東へ大きく流れの向きを変える。他方で、大江町西部の朝日山地から東流する月(つき)布(ぬの)川(がわ)は、左沢で最上川に合流する。月布川に沿って展開する集落では、かつて焼き畑農業を中心に青(あお)苧(そ)等が栽培され、最上川舟運を利用し、小千谷・能登をはじめ全国へと移出された。 左沢の町場景観は、大きく三つの区域に分けられる。一つ目は、市街地北部に位置する楯山地区である。14世紀後半には寒(さ)河(が)江(え)地頭大江氏の一族であった左沢氏が、最上川の攻撃斜面である楯山南側の急崖を利用して、大規模な山城を築いた。当時の集落の在り方は未詳だが、楯山麓には現在も「元(もと)屋(や)敷(しき)」の地名が残されており、当地が集落及び山城の立地する政治・行政上の拠点であったことが推測される。また、左沢市街地の北側に位置する楯山では、コナラ―カスミザクラ、クヌギの群落が分布しており、比較的近年まで、薪炭などに利用するため定期的な伐採が行われたことがわかる。 二つ目は最上川の河川区域で、河川舟運及び漁業など、歴史的に生活・生業の場であった。特に、17世紀半ばの西廻り航路・東廻り航路の整備に伴い最上川舟運の流通量が増えると、17世紀末には左沢に米沢藩舟屋敷が設置され、河岸が発達した。置(おい)賜(たま)地方と村山地方とを結ぶ峡谷の転換点に当たる左沢では、下流の航行に適した比較的大型の艜(ひらた)船(ぶね)から、上流の航行に適した比較的小型の小(こ)鵜(う)飼(かい)舟(ぶね)へと荷の積み替えが行われ、流通・往来の要衝として町場が栄えた。また、幕末から近代にかけては楯山麓の百(ど)目(め)木(き)地区などに大型の簗(やな)が仕掛けられたほか、茶屋も設置され船頭衆で賑わったとされる。 三つ目は市街地が展開する町場地区である。17世紀前半に左沢藩領が成立すると、藩主の酒井直次は楯山城を廃し、楯山城の西南方で、西から延びる台地が漆(うるし)川(がわ)及び小(こ)漆(うるし)川(がわ)の浸食により形成された要害の地に小漆川城を築城し、城下町を造営した。家臣屋敷及び酒井家の菩提寺である巨海院等が配された城下町は、現在も「内(うち)町(まち)」・「横(よこ)町(まち)」といった近世起源の地名、矩折型に屈曲した街路、武家屋敷に由来する比較的大規模な地割り等にその痕跡を残す。他方で、最上川と並行する河岸段丘面上には、近世の河岸の発達に伴い、町人層を中心とする河岸集落が展開した。原(はら)町(まち)通りを中心とする河岸集落起源の街区では、道路に面して短冊状の地割りを持ち、道路側からミセ・母屋・土蔵が並ぶ屋敷構えが形成されている。また、囃子屋台・神輿・獅子舞などの「練り物」を伴う近世の都市型祭礼が、現在も継承されている。また、大正11年(1922)に山形―左沢間の軽便鉄道が完成すると、駅が設置された左沢北西部の前田では放射状街路を持つ駅前通りの整備が行われ、沿道には旅館・食堂・劇場が新たに並んだ。さらに、昭和11年(1936)の大火後は、延焼防止のため内町通り・横町通り等が拡幅され空地が確保されたほか、従来の道路に並行して新道が敷設され、現在に至る左沢の碁盤目状区画が形成された。現在も、平成15年(2003)に最上橋が国道として架橋されるなど、自動車交通に対応した都市整備が行われており、近世から現在に至るまで、時代に応じて展開した町場の計画的な街区構造を重層的に確認することができる。 このように、左沢では、政治・行政上の拠点及び河岸集落として独特の生活文化を有する町場が展開してきた。中世から現代に至る左沢の歴史的展開が、現在の土地利用の在り方に重層的に表れており、最上川沿岸に発達した町場の一つの典型として、この地域における生活・生業を理解する上で欠くことができない景観地であることから、重要文化的景観に選定し、保存・活用を図るものである。