国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観
ふりがな
:
おくいずもたたらせいてつおよびたなだのぶんかてきけいかん
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
1563.3 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2014.03.18(平成26.03.18)
追加年月日
:
選定基準
:
所在都道府県
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島根県
所在地(市区町村)
:
島根県仁多郡奥出雲町
解説文:
詳細解説
斐伊川(ひいがわ)の源流部に位置する奥出雲地域は,起伏の緩やかな山地と広い盆地が発達しており,「真砂(まさ)砂鉄(さてつ)」と称される良質な磁鉄鉱を多く含有する地帯であることから,近世・近代にかけて我が国の鉄生産の中心地として隆盛を極め,「たたら製鉄」が栄えた。
丘陵を切り崩し水流によって比重選鉱するという「鉄(かん)穴流(ななが)し」が広範囲に行われ,この鉱山跡地(鉄穴流し跡)では,後にその地形を活かして豊かな棚田が拓かれた。
江戸時代,松江藩は,有力鉄師(たたら経営者)のみに鈩(たたら)株(鈩経営権)を与え,安定経営を図ったため,国内の一大鉄生産地域となった。明治に入り,安価な洋鉄が大量に輸入されるようになったことなどから,たたら製鉄は次第に衰退し,大正末年には一斉廃業となった。その後,日本刀の材料となる「玉鋼(たまはがね)」が枯渇したことから,昭和52年にたたら製鉄が選定保存技術として復活している。
このように,奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観は,たたら製鉄・鉄穴流し及びその跡地を利用した棚田によって形成されたものである。鉄(かん)穴(な)横手(よこて)(水路)及び鉄穴残(かんなざん)丘(きゅう)が点在する棚田が広がりをみせる農山村集落を,かつて鉄山(てつざん)(たたら製鉄用の木炭山林)であった山々が取り囲み,その一部で今なお,たたら製鉄が行われている景観地は,我が国における生活又は生業の理解のため欠くことのできないものである。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
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解説文
斐伊川(ひいがわ)の源流部に位置する奥出雲地域は,起伏の緩やかな山地と広い盆地が発達しており,「真砂(まさ)砂鉄(さてつ)」と称される良質な磁鉄鉱を多く含有する地帯であることから,近世・近代にかけて我が国の鉄生産の中心地として隆盛を極め,「たたら製鉄」が栄えた。 丘陵を切り崩し水流によって比重選鉱するという「鉄(かん)穴流(ななが)し」が広範囲に行われ,この鉱山跡地(鉄穴流し跡)では,後にその地形を活かして豊かな棚田が拓かれた。 江戸時代,松江藩は,有力鉄師(たたら経営者)のみに鈩(たたら)株(鈩経営権)を与え,安定経営を図ったため,国内の一大鉄生産地域となった。明治に入り,安価な洋鉄が大量に輸入されるようになったことなどから,たたら製鉄は次第に衰退し,大正末年には一斉廃業となった。その後,日本刀の材料となる「玉鋼(たまはがね)」が枯渇したことから,昭和52年にたたら製鉄が選定保存技術として復活している。 このように,奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観は,たたら製鉄・鉄穴流し及びその跡地を利用した棚田によって形成されたものである。鉄(かん)穴(な)横手(よこて)(水路)及び鉄穴残(かんなざん)丘(きゅう)が点在する棚田が広がりをみせる農山村集落を,かつて鉄山(てつざん)(たたら製鉄用の木炭山林)であった山々が取り囲み,その一部で今なお,たたら製鉄が行われている景観地は,我が国における生活又は生業の理解のため欠くことのできないものである。
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詳細解説
島根県東部の中国山地、斐伊川(ひいがわ)の源流部に位置する奥出雲地域では、起伏の緩やかな山地と広い盆地が発達している。東部に聳える船通山(せんつうざん)は、古事記・日本書紀に登場するスサノオノミコトのヤマタノオロチ退治神話の舞台となった地であり、出雲神話発祥の地とも語られている。 奥出雲町には風化の進んだ花崗岩が広く分布しており、この中に1%前後含有している磁鉄鉱が「真砂(まさ)砂鉄(さてつ)」と称されるものである。天平5年(733)に編まれた『出雲(いずも)国(のくに)風土記(ふどき)』の仁多郡(にたぐん)(現在の奥出雲町にあたる)の条に「三所(みところの)郷(さと)・布勢(ふせの)郷(さと)・三沢(みざわの)郷(さと)・横(よこ)田郷(たのさと)」あわせて4郷が所在し、「諸郷(もろもろ)より出(いだ)すところの鉄(まがね)堅(かた)くして、尤(もっと)も雑(くさぐさ)の具(もの)を造(つく)るに堪(た)ふ」と記されている。このことは、この地域では往時から盛んに製鉄が行なわれていたことを示すとともに、産する鉄の優秀性を物語るものである。戦国時代には、毛利氏が良鉄の産地として目を付け、鉄奉行を送り込み直轄支配して鉄の確保を図った。そして、近世・近代にかけて我が国の鉄生産の中心地として隆盛を極め、「たたら製鉄」が栄えた。 この地帯では広範にわたり「鉄(かん)穴流(ななが)し」が行われた。鉄穴流しとは選鉱方法の一つで、「切(き)り羽(は)」と呼ぶ鉄(かん)穴場(なば)で砂鉄を含む花崗岩の山を掘り崩し、それを「鉄(かん)穴(な)横手(よこて)」と呼ぶ溝に落とし込んで下流に運び、洗い池で比重の軽い砂を流し去って、砂鉄を選り出すもので、この地方の広範囲で稼業された。そして、この鉱山跡地(鉄穴流し跡)に、人の手が加えられた地形の利点を活かした棚田が拓かれたのである。棚田は、一般的な山間地の棚田と異なり1枚1枚が比較的大きく、民家より高い山側の丘陵尾根上に位置し、鉄穴横手が用水路として利用されていることに特徴がある。 江戸時代初頭には、松江藩は城下が斐伊川(ひいがわ)の最下流に位置することから、鉄(かん)穴(な)流(なが)しを禁止した。鉄師からの度重なる嘆願も叶わなかったが、堀尾氏にかわって入封してきた京極氏が、寛永13年(1636)に鉄穴流しを解禁している。これにより、仁多郡内においては、十数か所でたたら製鉄が操業された。享保11年(1726)に松江藩は鉄方(てつかた)御法式(おんほうしき)を施行して、絲(いと)原家(はらけ)、櫻井家(さくらいけ)、卜蔵家(ぼくらけ)、田部家(たなべけ)等の有力鉄師(たたら経営者)のみに鈩(たたら)株(かぶ)(鈩経営権)を与え、たたら場10か所のみに制限して安定経営をはかったため、明治末年まで国内の一大鉄生産地域としての地位が確立されていった。ただし、明治時代になると安価な洋鉄が多量に輸入されるようになり、国内でも洋式高炉による鉄生産が定着したことにより、たたら製鉄は次第に衰退し、大正末年には一斉廃業に追い込まれた。 その後、戦時中の一時期を除き、たたら製鉄は廃絶していたが、日本刀の材料となる「玉鋼(たまはがね)」が枯渇したことから、昭和40年頃から復活させる動きが起こり、昭和52年にたたら製鉄が選定保存技術として奥出雲町において復活している。 このように、奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観は、「たたら製鉄」、「鉄穴流し」とその跡地利用により形成されてきたものである。「鉄穴横手」(水路)及び「鉄穴残(かんなざん)丘(きゅう)」(花崗岩が硬く崩せなかったところ)が点在する棚田が広がりをみせる農山村の背景に、かつての「鉄山(てつざん)」(たたら製鉄用の木炭山林)であった山々が取り囲み、その一部で今なお、たたら製鉄が行われている景観地は、我が国における生活・生業の理解のため欠くことのできないものあり、重要文化的景観に選定し、保存・活用を図るものである。