国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
菅浦の湖岸集落景観
ふりがな
:
すがうらのこがんしゅうらくけいかん
菅浦の湖岸景観(全景)
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
1568.4 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2014.10.06(平成26.10.06)
追加年月日
:
選定基準
:
所在都道府県
:
滋賀県
所在地(市区町村)
:
滋賀県長浜市
菅浦の湖岸景観(全景)
解説文:
詳細解説
菅浦は,琵琶湖最北部の急峻な沈降(ちんこう)地形に営まれた集落である。鎌倉時代から江戸時代にかけての集落の動向を記した『菅(すが)浦(うら)文書(もんじょ)』によると,永仁3年(1295),菅浦は集落北西に所在する日指(ひさし)・諸河(もろこ)の棚田(たなだ)を,隣接する集落である大浦(おおうら)と争い,以降150年余りにわたって係争が続いたことが知られる。また,14世紀半ばには住民の自治的・地縁的結合に基づく共同組織である「惣(そう)」が,菅浦において既に作り上げられていたことが分かる。中世以来の自治意識及び自治組織は,時代に応じて緩やかに変化しながら,現在まで継承されている。
菅浦の居住地は,西村及び東村に大きく二分され,それぞれ西の四足門(しそくもん)及び東の四足門で集落の境界を表している。また,湖から集落背後の山林にかけて連続する地形の中で明確な集落構造が認められる。特にハマと呼ぶ湖岸の空間は,平地が狭小な菅浦において極めて有用であり,生産の場・作業場・湖上と陸上との結節点といった多様な用途が重層している。
このように,菅浦の湖岸集落景観は,奥琵琶湖の急峻な地形における生活・生業によって形成された独特の集落構造を示す景観地である。中世の「惣」に遡る強固な共同体によって維持されてきた文化的景観で,『菅浦文書』等により集落構造及び共同体の在り方を歴史的に示すことができる希有な事例である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
菅浦の湖岸景観(全景)
菅浦の湖岸景観(四足門)
菅浦の湖岸景観(石積み)
写真一覧
菅浦の湖岸景観(全景)
写真一覧
菅浦の湖岸景観(四足門)
写真一覧
菅浦の湖岸景観(石積み)
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解説文
菅浦は,琵琶湖最北部の急峻な沈降(ちんこう)地形に営まれた集落である。鎌倉時代から江戸時代にかけての集落の動向を記した『菅(すが)浦(うら)文書(もんじょ)』によると,永仁3年(1295),菅浦は集落北西に所在する日指(ひさし)・諸河(もろこ)の棚田(たなだ)を,隣接する集落である大浦(おおうら)と争い,以降150年余りにわたって係争が続いたことが知られる。また,14世紀半ばには住民の自治的・地縁的結合に基づく共同組織である「惣(そう)」が,菅浦において既に作り上げられていたことが分かる。中世以来の自治意識及び自治組織は,時代に応じて緩やかに変化しながら,現在まで継承されている。 菅浦の居住地は,西村及び東村に大きく二分され,それぞれ西の四足門(しそくもん)及び東の四足門で集落の境界を表している。また,湖から集落背後の山林にかけて連続する地形の中で明確な集落構造が認められる。特にハマと呼ぶ湖岸の空間は,平地が狭小な菅浦において極めて有用であり,生産の場・作業場・湖上と陸上との結節点といった多様な用途が重層している。 このように,菅浦の湖岸集落景観は,奥琵琶湖の急峻な地形における生活・生業によって形成された独特の集落構造を示す景観地である。中世の「惣」に遡る強固な共同体によって維持されてきた文化的景観で,『菅浦文書』等により集落構造及び共同体の在り方を歴史的に示すことができる希有な事例である。
詳細解説▶
詳細解説
琵琶湖の最北部は奥琵琶湖と称されており,屈曲する湖岸線は変化に富んでいる。地形は極めて急峻であり,琵琶湖へ半島状に突き出た山並みから,ほとんど平地を経ずして斜面が湖中深くに落ち込んでいる。このうち菅浦は,東の葛(つ)籠(づら)尾(お)崎(ざき)と西の海津(かいづ)大崎(おおさき)に挟まれて南南西に開口した大浦湾の東側に位置する。 菅浦に人が住み始めたのは,縄文時代まで遡る。奈良時代には湊が設けられ,湖上を舟が行く様が『万葉集』の和歌に詠われた。菅浦は,長久2年(1041)に園城寺円満院の荘園として立券された大浦荘の一部であったが,後に延暦寺檀那院の末寺であった竹(ちく)生島(ぶしま)に寄進された。鎌倉時代から江戸時代にかけての菅浦の動向を記した『菅浦文書』によると,永仁3年(1295),菅浦は集落北西に位置する日指(ひさし)・諸河(もろこ)の田畑を菅浦領と主張し,以降150年余りにわたって,同じく領有権を主張する大浦と争ったことが知られる。貞和2年(1346)の『菅浦庄惣村置文』などからは,すでにこの頃の菅浦において,住民の自治的・地縁的結合に基づく共同組織である「惣」が作り上げられていたことが分かる。現在も,集落自治において決定権限を有する「長老衆」を置くなど,中世以来の自治意識やそれを支えた自治組織が,緩やかに変容しながら継承されている。また,長年にわたる係争を経て,菅浦が耕作するに至った日指・諸河の農地では,現在も水田が営まれている。 菅浦は,「西村」及び「東村」の2つの地区から成る。西村では,小出(おで)川(がわ)が形成する小規模な扇状地の扇端部に湧出する水を利用し,東村では,阿弥陀(あみだ)寺川(じがわ)をはじめとする谷川の水を受けた前田川に,イドと呼ばれる石段等を設けて生活用水とするなど,両地区では主たる水利が異なる。また,かつてはそれぞれ「西の川」及び「東の川」と呼ぶ舟入(ふないり)(舟の係留場)が存在し,現在も菅浦の氏神である須賀神社の例祭において氏子が西村と東村に分かれるなど,両地区の区分は継承されている。さらに,西村の西端及び東村の東端には「四足門(しそくもん)」と呼ぶ薬医門形式の門を設けており,集落の内と外とを区別する境界施設として機能している。 菅浦では,湖から背後の山にかけて連続する地形の中で,明確な集落構造が認められる。特に,平地が狭小な菅浦では,ハマと呼ぶ湖岸の空間が生活・生業を営む上で有効に機能している。 第一に,生産の場として機能している。菅浦では屋敷地内だけではなく,ハマミチと呼ぶ道路を隔てた湖側にも幅を持った石垣が築かれている。これらの石垣は,琵琶湖からの波風を防いでいるほか,湖側の石垣上面では自家消費用の畑地を営んでいる。第二に,作業場として機能している。かつてはハマにハサ杭を立てて,日指・諸河で収穫した稲を干したほか,ハマで屋根葺き材のヨシを切りそろえた。ハマは日当たり・風通しがよいため,現在も洗濯物を干す場として利用している。第三に,陸上と湖上との結節点として機能している。かつてはハマから湖上へウマと呼ばれる簡易な一枚板を渡し,洗い場として利用した。また,山が湖に迫る菅浦の沈降地形は,木竹を切り出し,舟へと積込むのに有利であり,山から切り出した割木等は,出荷するまでハマに貯蔵した。さらに菅浦では,琵琶湖の伝統的な定置漁法である魞(えり)漁等の漁業を行っており,かつては舟をハマに係留したほか,現在もハマを漁具の修理場・仮置き場として利用している。 このように,ハマは菅浦において多様な用途が重層する極めて有用な空間であるため,湖岸のハマを持つ住戸を「浜(はま)出(で)」と呼び,「北出(きたで)」と称する山手の住戸と区別している。 以上のように,菅浦の湖岸集落景観は,奥琵琶湖の急峻な地形における生活・生業によって形成された独特の集落構造を示す景観地であり,中世の「惣」に遡る強固な共同体によって維持されてきた文化的景観である。『菅浦文書』等により,集落構造及び共同体の在り方を歴史的に示すことができる希有な事例であり,我が国民の生活・生業を理解するため欠くことができないことから,重要文化的景観に選定し,保存・活用を図るものである。