国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観
ふりがな
:
さどあいかわのこうざんおよびこざんまちのぶんかてきけいかん
佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観(上町)
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
630.1 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2015.10.07(平成27.10.07)
追加年月日
:
選定基準
:
所在都道府県
:
新潟県
所在地(市区町村)
:
新潟県佐渡市
佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観(上町)
解説文:
詳細解説
相川は,標高約300mの山地から海成段丘を経て狭い海岸低地が続く地形上に位置する。17世紀初頭,相川で鉱脈が発見されると急速に鉱山開発が進んだ。慶長8年(1603),佐渡代官に任じられた大久保長安(おおくぼながやす)は上町(かみまち)台地の尾根線上に幹線道路を敷き,沿道に大工町など職業別の町立てを行った。17世紀前半には海岸沿いの下町(したまち)で埋め立てを伴う町立てが行われ,上町と下町とをつなぐ段丘崖に石段等が発達した。18世紀に金銀の産出量が激減すると,上町等に散在していた鉱業関係施設が佐渡奉行所内に集約された。他方で商人の中には廻船業等で財を成す者も現れ,下町には蔵を伴う大規模な地割りの廻船問屋等が並んだ。近代には鉱山が三菱へ払い下げられ,上町には間口が広く通りに面して庭を有する社宅も立地した。下町には相川町役場等の公的機関が立地し,行政機能を持つようになった。現在も上町は各町家が短冊状の地割りを継承しつつ,通りに面して平屋構造を持ち背後に段々と降りる吉野造りを成している。下町は旧街道沿いに展開する近世以来の地割りを継承しつつ,海岸部を埋め立て佐渡市役所支所等が配置され,行政の中心地機能を強化している。当該文化的景観は,鉱山地区の生産機能,上町地区の居住・行政機能,下町地区の流通・行政機能が,金銀採掘の盛衰に伴い動的な関係を構築しつつ展開してきた相川の歴史的変遷を示す景観地である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観(上町)
佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観
佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観(相川を巡る神社例祭)
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佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観(上町)
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佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観
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佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観(相川を巡る神社例祭)
解説文
相川は,標高約300mの山地から海成段丘を経て狭い海岸低地が続く地形上に位置する。17世紀初頭,相川で鉱脈が発見されると急速に鉱山開発が進んだ。慶長8年(1603),佐渡代官に任じられた大久保長安(おおくぼながやす)は上町(かみまち)台地の尾根線上に幹線道路を敷き,沿道に大工町など職業別の町立てを行った。17世紀前半には海岸沿いの下町(したまち)で埋め立てを伴う町立てが行われ,上町と下町とをつなぐ段丘崖に石段等が発達した。18世紀に金銀の産出量が激減すると,上町等に散在していた鉱業関係施設が佐渡奉行所内に集約された。他方で商人の中には廻船業等で財を成す者も現れ,下町には蔵を伴う大規模な地割りの廻船問屋等が並んだ。近代には鉱山が三菱へ払い下げられ,上町には間口が広く通りに面して庭を有する社宅も立地した。下町には相川町役場等の公的機関が立地し,行政機能を持つようになった。現在も上町は各町家が短冊状の地割りを継承しつつ,通りに面して平屋構造を持ち背後に段々と降りる吉野造りを成している。下町は旧街道沿いに展開する近世以来の地割りを継承しつつ,海岸部を埋め立て佐渡市役所支所等が配置され,行政の中心地機能を強化している。当該文化的景観は,鉱山地区の生産機能,上町地区の居住・行政機能,下町地区の流通・行政機能が,金銀採掘の盛衰に伴い動的な関係を構築しつつ展開してきた相川の歴史的変遷を示す景観地である。
詳細解説▶
詳細解説
相川は佐渡島のうち大佐渡山地の南西端に位置し、標高約300mの山地から海成段丘を経て狭い海岸低地が連続する地形上に展開する。段丘部は河川に浸食され幾筋もの馬の背状の尾根を形成しており、平坦地は極めて狭小である。大佐渡山地には、日本海形成期の海底火山活動によって生じた火山岩・火砕岩類の地層が分布しており、これらが金銀鉱床を成し近世以降の相川における鉱山開発を促した。沿岸を暖流の対馬海流が流れるため、山間部及び段丘崖等でタブ・シイなど照葉樹林が自生するほか、鉱山開発によって発生した露岩部にはアカマツが優占する。他方で、特に冬季の北西季節風を防ぐために植林されたクロマツなどの植生が海岸部及び段丘面縁辺で見られる。 金銀山発見以前の相川は、羽田村と呼ばれる人家5、6軒の小村であった。慶長6年(1601)、先行して開発されていた鶴子(つるし)銀山の山師が鉱脈を探査し、相川に優良な鉱脈を発見した。その後急速に鉱山開発が進み、全国各地から山師や鉱山関係者が流入したことによって上相川に計画的な集落が造成された。慶長8年(1603)、石見銀山の経営に実績を上げていた大久保長安(おおくぼながやす)(1545~1613)が佐渡代官に任じられると、相川はますます隆盛し、山中には至る所に間歩(まぶ)が展開した。また、長安は上町(かみまち)台地の先端に陣屋(後の佐渡奉行所)を置き、鉱山と陣屋とを結ぶ尾根線上に幹線道(京町通り)を通した。通りに沿って、鉱夫が集住した大工町、山師の名前がついた新五郎町、商家が立ち並んだ米屋町など職業別の町立てが行われた。それぞれの敷地では石垣を築いて平坦地を造成しており、間口の狭い短冊状の地割りを成していた。また、鉱山の繁栄に伴って様々な商人や職人が相川に流入し、数多くの寺社が建立された。寛永6年(1629)には、海岸沿いの下町(したまち)で町立てが行われ、さらに埋め立てによって町場も広がり、上町と下町とをつなぐ段丘崖に坂道や石段が発達した。これに伴い、相川と国中(くになか)平野及び小木(おぎ)港とを結ぶ中山峠越えの街道も整備され、島内外との様々な物資の流通が図られるようになった。 18世紀になると資源の枯渇及び自然災害等により金銀の産出量が激減した。上相川集落は衰退し、上町等に散在していた選鉱・製錬関係施設が奉行所内に集約された。金銀山が衰退する一方で、商人の中には廻船業等で財を成す者も現れ、下町には蔵を伴う大規模な地割りの廻船問屋及び商家等が並んだ。 明治時代になると、明治政府主導のもと佐渡鉱山でも生産技術の近代化が進められた。谷筋を中心に竪坑・選鉱場・製錬所等の大規模な生産施設が設置され、近代的な土木技術により大間港等が整えられた。明治29年(1896)に鉱山が三菱へ払い下げられると、上町には間口が広く通りに面して庭を有する社宅も立地した。他方で、大正期から昭和期にかけて下町には相川町役場等の公的機関が立地し、下町は行政機能を持つようになった。佐渡鉱山では昭和初期に大増産が図られたものの、昭和27年(1952)には生産活動を大幅に縮小した。平成元年(1989)には休山を迎えることとなり、現在、鉱山の生産施設群は往時の技術を伝える展示施設に転用されている。 上町では、各町家は短冊状の地割りを現在も継承しつつ、通りに面して平屋構造を持ち背後に段々と降りていく吉野造りと呼ばれる構造を成している。また、海から恒常的に吹き上げる強風に対応するため、短い庇及び玄関の海側に風除けを持つ特徴的な町家が建築されている。下町は旧街道沿いに展開する近世以来の地割りを継承しつつ、海岸部を埋め立て佐渡市役所支所等が配置され、行政の中心地機能を強化している。鉱山の繁栄と安全とを祈願するために建立された大山祗(おおやまずみ)神社では鉱山祭りが、相川の総鎮守である善知鳥(うとう)神社では佐渡島内最大の相川祭りが毎年営まれており、鉱山期に遡る地域の営みが現在も継承されている。 このように、佐渡相川の鉱山及び鉱山町の文化的景観は、金銀山開発に伴い発展してきた都市の文化的景観である。鉱山地区の生産機能、上町地区の居住及び行政機能、下町地区の流通及び行政機能が、金銀採掘の盛衰に伴い動的な関係を構築しつつ展開してきた相川の歴史的変遷を示す文化的景観であり、我が国民の生活・生業を理解するため欠くことができない景観地であることから、重要文化的景観に選定し、保存・活用を図るものである。