国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
京都岡崎の文化的景観
ふりがな
:
きょうとおかざきのぶんかてきけいかん
京都岡崎の文化的景観(琵琶湖疏水)
写真一覧▶
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
112.5 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2015.10.07(平成27.10.07)
追加年月日
:
選定基準
:
所在都道府県
:
京都府
所在地(市区町村)
:
京都府京都市
京都岡崎の文化的景観(琵琶湖疏水)
解説文:
詳細解説
京都東山の麓,白川の扇状地に位置する岡崎は,平安時代には院政が執り行われた白河(しらかわ)殿(どの)のほか,六勝寺(りくしょうじ)の大伽藍及び園池が造営された地域である。応仁の乱の後農業を主体とする地域となり,岡崎村,聖護院(しょうごいん)村として都市近郊農業が成立した。近世には白川の支流が灌漑用水として流れていたことが分かる。近代には,殖産興業策の一つとして琵琶湖疏水(そすい)が建設され,水運,水力発電等によって京都の近代化の礎を築くとともに,平安遷都1100年紀念祭及び第4回内国勧業博覧会が開催された。また,南禅寺界隈では別荘の開発が進み,疏水の水を活用した庭園群が形成された。博覧会跡地には岡崎公園,京都市美術館等の文化施設が建設され,京都を代表する文教地区として現在に至る。
京都岡崎の文化的景観は,白川の扇状地の利点を最大限に活用し,古代から中世には寺院群,中世から近世には都市近郊農業,近代には琵琶湖疏水の開削に伴い文教施設や園池等が展開するなど,大規模土地利用を経た京都市街地周縁部における重層的な土地利用変遷を現在に伝えるものである。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
京都岡崎の文化的景観(琵琶湖疏水)
京都岡崎の文化的景観(疏水分線)
京都岡崎の文化的景観(無隣庵庭園)
写真一覧
京都岡崎の文化的景観(琵琶湖疏水)
写真一覧
京都岡崎の文化的景観(疏水分線)
写真一覧
京都岡崎の文化的景観(無隣庵庭園)
解説文
京都東山の麓,白川の扇状地に位置する岡崎は,平安時代には院政が執り行われた白河(しらかわ)殿(どの)のほか,六勝寺(りくしょうじ)の大伽藍及び園池が造営された地域である。応仁の乱の後農業を主体とする地域となり,岡崎村,聖護院(しょうごいん)村として都市近郊農業が成立した。近世には白川の支流が灌漑用水として流れていたことが分かる。近代には,殖産興業策の一つとして琵琶湖疏水(そすい)が建設され,水運,水力発電等によって京都の近代化の礎を築くとともに,平安遷都1100年紀念祭及び第4回内国勧業博覧会が開催された。また,南禅寺界隈では別荘の開発が進み,疏水の水を活用した庭園群が形成された。博覧会跡地には岡崎公園,京都市美術館等の文化施設が建設され,京都を代表する文教地区として現在に至る。 京都岡崎の文化的景観は,白川の扇状地の利点を最大限に活用し,古代から中世には寺院群,中世から近世には都市近郊農業,近代には琵琶湖疏水の開削に伴い文教施設や園池等が展開するなど,大規模土地利用を経た京都市街地周縁部における重層的な土地利用変遷を現在に伝えるものである。
詳細解説▶
詳細解説
岡崎地域は、京都東山の西麓、花崗岩質の比叡山の西側を水源とする白川に沿って北東から南西へと緩やかに傾く大規模な扇状地に位置する。 平安時代には京条坊の東の延長線上にあたり、白河法皇の御所である白河殿(しらかわどの)等の皇族や貴族の別荘が多く造成された地域である。8世紀以降、別荘地は禅林寺、永観堂等の寺院に取って代わり、11 世紀になると、広大な園池を伴う法勝寺(ほっしょうじ)を代表とする六勝寺(りくしょうじ)と呼ばれる大規模寺院群が建立された。13世紀末には、亀山天皇が離宮である禅林寺(ぜんりんじ)殿(どの)の敷地に南禅寺を創建し、京都盆地の東端にあたるこの地域は、東山道及び東海道を通って京都に進入する際の交通の要衝として機能していたと考えられる。 文治元年(1185)の大地震をはじめ、度重なる災害と応仁の乱を経て岡崎地域は農業を主体とする地域になる。近世には、岡崎村の畑地を横切るように白川の支流が灌漑用水として流れており、近接する聖護院村では江戸時代中期から後期にかけて茶、蕪、大根等の野菜生産が多くおこなわれるようになった。宝永5年(1708)の京都の大火では、被災した内裏(だいり)の南の市街地と多数の寺院が移転先としたのもこの鴨川二条川東地区である。幕末の一時期には彦根・阿波・安芸・越前・加賀等の藩邸も建設されたが、大政奉還によって取り壊された。 近代、東京遷都以後には、殖産興業策の一つとして京都府知事北垣国道が主導した琵琶湖疏水建設が京都の近代化を先導した。疏水が2箇所で直角に曲がることで形成された大規模街区では明治28年(1895)平安遷都1100年紀念祭及び第4回内国勧業博覧会が同時に開催された。疏水には遊覧船が往来し、博覧会場では疏水の水を利用した噴水や発電による展示館が設けられたという。跡地には明治32年(1899)武徳殿が竣工し、明治36年(1903)には京都市紀年動物園が開園し、明治37年(1904)平安神宮参道を中心に約4.3haが岡崎公園とされた。昭和初年まで継続して博覧会等が開催されたほか、琵琶湖疏水の親水空間を含む岡崎公園界隈では、明治40年代に京都府立図書館、京都市立勧業館、大正期に運動場、市立公会堂、昭和期に京都市立美術館、京都市国立近代美術館、京都会館等が建設され、京都を代表する文教地区として現在に至る。疏水建設後、明治24年(1891)には蹴上発電所が日本初の事業用水力発電所として完成し、電灯、電気鉄道等の京都の近代社会資本形成を主導した。大正期にかけては時計製造、綿糸紡績、黄銅延板、撚糸、真鍮清掃等の工場が立地し、その一部は現在まで継続している。 また、南禅寺では、琵琶湖疏水の建設により境内に煉瓦造の水路閣が建設され、寺領が認められなくなったため民間へと払い下げられた塔頭敷地には、庭園を持つ邸宅及び別荘が多く築造されていった。その発端を成すものは山県有朋による無鄰(むりん)庵(あん)であり、明治30年代以降には7代目小川治兵衞による庭園が多く作られた。平安神宮の園池では琵琶湖でもあまり見られなくなったイチモンジタナゴを含む生態系を育み、現在に至る。庭園では、アカマツ林を中心とする東山の二次林の植生を尊重し、アカマツを植え東山を借景としている。庭園群は水系及び緑のネットワークを形成して動植物の生息環境を保持し、都市の中の二次的自然として琵琶湖疏水由来の生態系までも現在に伝えているのである。 このように京都岡崎の文化的景観は、東山山麓の白川の扇状地の利点を最大限に活用し、古代から中世には寺院群、中世から近世には都市近郊農業、近代には文教施設や園池等が展開した重層的な土地利用変遷に伴う文化的景観である。特に琵琶湖疏水とその周囲に関連施設として建設された公園・文教施設群、園池を伴う別荘庭園群は京都のみならず我が国の風土によって形成された景観地として欠くことのできないものである。