国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
小菅の里及び小菅山の文化的景観
ふりがな
:
こすげのさとおよびこすげさんのぶんかてきけいかん
小菅の里及び小菅山の文化的景観(遠景)
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
389.7 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2015.01.26(平成27.01.26)
追加年月日
:
選定基準
:
所在都道府県
:
長野県
所在地(市区町村)
:
長野県飯山市
小菅の里及び小菅山の文化的景観(遠景)
解説文:
詳細解説
小菅は,長野県北部の飯山盆地東縁に営まれる集落で,小菅山山麓の緩斜面上に広がる。集落を囲む山々ではブナ群落・ナラ群落等が卓越しており,それらはかつて薪炭材等に利用されたほか,集落内でもカツラ・ケヤキなどの樹木が植えられており,小菅神社の例大祭である「小菅の柱松(はしらまつ)行事」に用いられている。
小菅山は7世紀前半に遡る修験(しゅげん)の山であり,戦国時代には北信から上越に及ぶ信仰圏を誇ったとされる。小菅神社の直線的な参道の両側に方形の区画を持つ坊院群が密集する古絵図が伝わっており,現在も,当地で産出する安山岩を用いた石積み等で区画された地割が,居住地及び耕作地として継承されている。
小菅では,山体崩壊により生じた湧水等を居住地に引き込み,カワ又はタネと称する池で受け,洗いもの・消雪等に利用している。また,集落北方の北竜湖(ほくりゅうこ)から用水を引き,居住地背後の水田・畑地の灌漑に利用している。水路の維持・管理など集落の共同作業はオテンマと称し,地域共同体の紐帯として機能している。
このように,小菅の里及び小菅山の文化的景観は,小菅山及びその参道沿いに展開した計画的な地割を持つ集落景観で,カワ又はタネと称する水利が特徴的な文化的景観である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
小菅の里及び小菅山の文化的景観(遠景)
小菅の里及び小菅山の文化的景観(小菅神社参道)
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小菅の里及び小菅山の文化的景観(遠景)
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小菅の里及び小菅山の文化的景観(小菅神社参道)
解説文
小菅は,長野県北部の飯山盆地東縁に営まれる集落で,小菅山山麓の緩斜面上に広がる。集落を囲む山々ではブナ群落・ナラ群落等が卓越しており,それらはかつて薪炭材等に利用されたほか,集落内でもカツラ・ケヤキなどの樹木が植えられており,小菅神社の例大祭である「小菅の柱松(はしらまつ)行事」に用いられている。 小菅山は7世紀前半に遡る修験(しゅげん)の山であり,戦国時代には北信から上越に及ぶ信仰圏を誇ったとされる。小菅神社の直線的な参道の両側に方形の区画を持つ坊院群が密集する古絵図が伝わっており,現在も,当地で産出する安山岩を用いた石積み等で区画された地割が,居住地及び耕作地として継承されている。 小菅では,山体崩壊により生じた湧水等を居住地に引き込み,カワ又はタネと称する池で受け,洗いもの・消雪等に利用している。また,集落北方の北竜湖(ほくりゅうこ)から用水を引き,居住地背後の水田・畑地の灌漑に利用している。水路の維持・管理など集落の共同作業はオテンマと称し,地域共同体の紐帯として機能している。 このように,小菅の里及び小菅山の文化的景観は,小菅山及びその参道沿いに展開した計画的な地割を持つ集落景観で,カワ又はタネと称する水利が特徴的な文化的景観である。
詳細解説▶
詳細解説
小菅は飯山盆地の東縁に位置する集落で、小菅山山麓の緩斜面上に広がる。集落を囲む山々ではブナ群落・ナラ群落等が卓越しており、それらがかつて薪炭材などに利用されたことがわかるほか、集落内でもカツラ・ケヤキ などの樹木が植えられており、 小菅神社の例大祭である「小菅の柱松(はしらまつ)行事」に用いられている。 小菅では、7世紀前半に修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)が小菅山に小菅権現を祀ったことが伝わり、少なくとも平安時代後期には現在の小菅神社奥社の前身が設けられたとされている。永禄7年(1564)に上杉輝虎(てるとら)(のちの上杉謙信)が更級(さらしな)八幡宮(長野県千曲市)に宛てた戦勝祈願の願書からは、小菅山は戸隠(とがくし)山・飯縄(いいづな)山と並ぶ修験の山で、その信仰圏は北信地域のみならず上越地域まで広がっていたことがわかる。永禄9年(1566)の銘を有す る『信刕高井郡小菅山元隆寺之圖(しんしゅうたかいぐんこすげさんがんりゅうじのず)』及び延享3年(1746)に古絵図として作成された『信濃國高井郡小菅山絵圖(しなののくにたかいぐんこすげさんえず)』では、小菅山の麓に方形の区画をもつ多くの坊院群が密集して描かれている。これらは永禄4年(1561)の川中島合戦に関連して焼失したとされるが、天正年間(1573~92)までには坊院跡が一般の居住地に転じたとされ、現在の小菅神社奥社(重要文化財)も天正19年(1591)の建造と伝わる。現在も、カイドと称する小菅神社参道の南北に、当地で産出する安山岩の石積み等で区画された地割が、居住地及び耕作地として継承されている。特にカイド沿いの民家では、カイドに面する座敷にミセと呼ばれる縁側が設えられており、そこでかつて祭礼に伴って開かれた市の際に商いを行ったとされるなど、独特の間取りも確認できる。 小菅では、断層活動により山体崩壊が生じた結果、湧水に恵まれると同時に、北竜湖などの湛水域が形成された。小菅ではこれらを水源として8系統の水路を設け、生活用水及び農業用水として利用している。居住地においては、敷地内にカワ又はタネと呼ばれる池を設え、洗いもの・消雪等に利用するほか、明治期までは敷地の裏に水を引き入れ、紙漉き(内山紙(うちやまがみ))を行っていた。耕作地は居住地背後に展開しており、現在も水田及び畑が営まれる。近世には北竜湖から「ひましめ水路」と呼ばれる用水を引いて水利を安定化させており、これは現在も灌漑用水として機能している。集落の共同作業はオテンマと称し、用水路の日常的な維持・管理のほか、柱松の制作及びカイドの清掃など「小菅の柱松行事」の催行に関する作業等を行っている。 このように、小菅の里及び小菅山の文化的景観は、修験道の中心地であった小菅山及びその参道沿いに展開した計画的な地割を示す景観地であり、カワ又はタネと称する池など特徴的な水利を伴う生活・生業によって形成された文化的景観である。信仰の山、生活・生業に利用した里山、居住地及び耕作地等が展開する里から成る明確な空間構造を示し、我が国民の生活・生業を理解するため欠くことができない景観地であることから、重要文化的景観に選定し、保存・活用を図るものである。