国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
大溝の水辺景観
ふりがな
:
おおみぞのみずべけいかん
大溝の水辺景観(遠景)
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
1384.1 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2015.01.26(平成27.01.26)
追加年月日
:
選定基準
:
所在都道府県
:
滋賀県
所在地(市区町村)
:
滋賀県高島市
大溝の水辺景観(遠景)
解説文:
詳細解説
大溝は琵琶湖北西岸で営まれる集落で,集落南部には湖岸砂州により琵琶湖と隔てられた内湖(ないこ)の乙女ヶ池(おとめがいけ)が広がる。大溝は,古代北陸道の三尾(みお)駅及び湖上交通の主要湊である勝野津(かつのつ)が比定される交通の要衝として機能してきた。戦国時代から江戸時代にかけて大溝城及び城下町が整えられ,乙女ヶ池と琵琶湖との間の砂州上に打下(うちおろし)集落が置かれた。明治初期の蒸気船就航,昭和初期の鉄道敷設など大溝を取り巻く交通事情は変化してきたが,旧街道沿いに列村(れっそん)形態を成す集落構造は現在も継承されている。
大溝の旧城下町区域では,近世に遡る古式上水道が現在も利用されている。水源地と高低差がない勝野井戸組合では埋設した水道管で各戸に配水し,大溝西側の山麓に水源を持つ日吉山(ひよしやま)水道組合では,分水のためにタチアガリと呼ばれる施設を設けている。他方で,打下集落では琵琶湖側に高波・浸水防止のための石垣を築いた。水草が繁茂する乙女ヶ池には水田地先の個人所有地と水草の刈取りを入札で決めた共有地があり,琵琶湖内湖の共同利用の在り方がわかる。
このように,大溝の水辺景観は,中・近世に遡る大溝城及びその城下町の空間構造を現在も継承する景観地で,琵琶湖及び内湖の水又は山麓の湧水を巧みに用いて生活・生業を営むことによって形成された文化的景観である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
大溝の水辺景観(遠景)
大溝の水辺景観(タチアガリ)
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大溝の水辺景観(遠景)
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大溝の水辺景観(タチアガリ)
解説文
大溝は琵琶湖北西岸で営まれる集落で,集落南部には湖岸砂州により琵琶湖と隔てられた内湖(ないこ)の乙女ヶ池(おとめがいけ)が広がる。大溝は,古代北陸道の三尾(みお)駅及び湖上交通の主要湊である勝野津(かつのつ)が比定される交通の要衝として機能してきた。戦国時代から江戸時代にかけて大溝城及び城下町が整えられ,乙女ヶ池と琵琶湖との間の砂州上に打下(うちおろし)集落が置かれた。明治初期の蒸気船就航,昭和初期の鉄道敷設など大溝を取り巻く交通事情は変化してきたが,旧街道沿いに列村(れっそん)形態を成す集落構造は現在も継承されている。 大溝の旧城下町区域では,近世に遡る古式上水道が現在も利用されている。水源地と高低差がない勝野井戸組合では埋設した水道管で各戸に配水し,大溝西側の山麓に水源を持つ日吉山(ひよしやま)水道組合では,分水のためにタチアガリと呼ばれる施設を設けている。他方で,打下集落では琵琶湖側に高波・浸水防止のための石垣を築いた。水草が繁茂する乙女ヶ池には水田地先の個人所有地と水草の刈取りを入札で決めた共有地があり,琵琶湖内湖の共同利用の在り方がわかる。 このように,大溝の水辺景観は,中・近世に遡る大溝城及びその城下町の空間構造を現在も継承する景観地で,琵琶湖及び内湖の水又は山麓の湧水を巧みに用いて生活・生業を営むことによって形成された文化的景観である。
詳細解説▶
詳細解説
大溝は、比良山地(ひらさんち)と琵琶湖との間に展開する高島平野(たかしまへいや)の南端に位置し、琵琶湖北西岸に迫り出す明神崎(みょうじんざき)の北側に広がる集落である。地域の南部には、湖岸砂州により琵琶湖と隔てられた内湖の乙女ヶ池(おとめがいけ)が展開しており、 西方の山麓で営まれる水田の田越し灌漑を経た水が流入する。乙女ヶ池に群生するマツモ・マコモなどの湿性植物は、畑の肥料や家畜の飼料などに利用された。 大溝は古来より交通の要衝であり、古代北陸道の三尾(みお)駅の比定地とされるほか、湖上交通の拠点湊であった勝野津(かつのつ)としても知られる。 天正6年(1578)、織田信長の甥にあたる織田信澄(のぶすみ)は、長浜及び安土と同様に内湖を堀として利用した大溝城及び城下町を建設するとともに、西側山麓を通っていた街道を城下へ付け替え、同時に大溝湊の整備を行った。大溝城の北西側に城下町を配するとともに、乙女ヶ池東側の砂州上に展開する打下(うちおろし)地区には、平時には舟運及び漁ろうに携わり、戦時には水軍に転換する集団を配置した。大溝城は慶長8年(1603)に廃城となったが、元和5年(1619)に大溝藩主として入部した分部光信(わけべみつのぶ)は城跡に陣屋を置くとともに、かつての城下町に武家地及び町人地を配置し、武家地と町人地との境界に総門を設けた。武家地は堀と塀で囲まれた規模の大きい地割とされたのに対し、町人地は間口が狭く奥行きの深い短冊形の区画割とされ、通りの中央には水路が設けられた。さらに、大溝湊を現在の規模まで拡張するとともに、西側山麓には分部氏の転封に伴って移転してきた寺院が配置された。明治初期に蒸気船が就航し、昭和2年(1927)に鉄道が敷設されるなど、大溝を取り巻く交通事情は変化したが、旧街道沿いに列村形態を成す集落構造を残している。また、旧城下町地区では醸造業・製材業等が、打下地区では主に農業が営まれる生業構造 が、それぞれ現在に継承されている。 旧城下町の区域では、近世に遡る2系統の古式上水道が現在も利用されている。このうち水源地と高低差がない勝野井戸組合では、埋設した水道管を用いて各戸に配水している。大溝の西側山麓に水源地を持つ日吉山(ひよしやま)水道組合では、水道を地下に通しつつ、ところどころで分水のためにタチアガリと呼ばれる施設を作り、各戸に水を引き入れている。また、分部氏が庇護した日吉神社を氏神とする旧城下町の区域には、春の大祭で用いる曳山を収めた山蔵が、近世以来の自治組織である5つの組ごとに建築されている。曳山の維持に関わる作業は、上水道の管理に関わる作業とともに、地域共同体の結び付きを継承する機能を果たしている。 他方で、琵琶湖と乙女ヶ池との両方の水域に面する打下地区では、琵琶湖をウミ、乙女ヶ池をセドウミ又はウラウミと呼んでいる。琵琶湖側には高波・浸水防止のため、近傍で産出する石材で石垣を築き、ところどころに切れ目を設けて琵琶湖への通路を確保している。湖岸の浜ではハシイタと呼ばれる桟が琵琶湖に突き出しており、各戸の洗い場として利用された。また、乙女ヶ池は農業排水及び生活排水が流入するため栄養価に富み、水草が繁茂する。乙女ヶ池には水田地先の個人所有地のほか、水草の刈り取りを入札で決定していた共有地があり、内湖の共同利用の在り方がわかる。 このように、大溝の水辺景観は、中・近世に遡る大溝城及びその城下町の空間構造を現在も継承する景観地で、琵琶湖及び内湖の水又は山麓の湧水を巧みに用いて生活・生業を営むことにより形成された文化的景観である。琵琶湖岸の集落の中でも水利の在り方及び集落構造を現在も継承する典型的な事例であり、我が国民の生活・生業を理解するため欠くことができない景観地であることから、重要文化的景観に選定し、保存・活用を図るものである。