国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
三角浦の文化的景観
ふりがな
:
みすみうらのぶんかてきけいかん
三角浦の文化的景観(遠景)
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種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
107.1 ha
その他参考となるべき事項
:
選定番号
:
選定年月日
:
2015.01.26(平成27.01.26)
追加年月日
:
選定基準
:
所在都道府県
:
熊本県
所在地(市区町村)
:
熊本県宇城市
三角浦の文化的景観(遠景)
解説文:
詳細解説
三角浦の文化的景観は熊本県中西部に位置し,三角ノ瀬戸に面して展開する。三角ノ瀬戸は水深が深く,湾内は比較的穏やかで暴風・波浪等の影響を受けにくいことから,古代より八代海(やつしろかい)と島原湾とを結ぶ南北方向及び九州内陸部と天草諸島とを結ぶ東西方向の流通・往来の結節点として機能してきた。
三角ノ瀬戸は変化に富んだ海岸地形を成しており,戦国時代に島津氏家老の上井覚兼(うわいかくけん)が和歌を詠むなど古くからの景勝地として知られてきた。近代になると小泉八雲(こいずみやくも)など文人墨客が文学の舞台としたほか,熊本を本拠とする第六師団の保養地に指定され,現在も別荘が立地するなど,三角浦は保養都市として機能してきた。
また,明治20年(1887)に内務省雇いのオランダ人技師ムルデルの設計により近代港湾が建設され,三角港は屈指の拠点港として隆盛した。築港と同時に計画的な市街地が整えられ,商業地区及び司法・行政地区等が設置された。道路・水路等から成る建設当初の都市構造を現在まで継承しながら,三角浦は港湾都市として機能してきた。
このように,三角浦の文化的景観は,保養都市及び特に近代以降に大きく発展した港湾都市という2つの都市機能が複合した文化的景観である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
三角浦の文化的景観(遠景)
三角浦の文化的景観(ガイドによる地区の案内)
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三角浦の文化的景観(遠景)
写真一覧
三角浦の文化的景観(ガイドによる地区の案内)
解説文
三角浦の文化的景観は熊本県中西部に位置し,三角ノ瀬戸に面して展開する。三角ノ瀬戸は水深が深く,湾内は比較的穏やかで暴風・波浪等の影響を受けにくいことから,古代より八代海(やつしろかい)と島原湾とを結ぶ南北方向及び九州内陸部と天草諸島とを結ぶ東西方向の流通・往来の結節点として機能してきた。 三角ノ瀬戸は変化に富んだ海岸地形を成しており,戦国時代に島津氏家老の上井覚兼(うわいかくけん)が和歌を詠むなど古くからの景勝地として知られてきた。近代になると小泉八雲(こいずみやくも)など文人墨客が文学の舞台としたほか,熊本を本拠とする第六師団の保養地に指定され,現在も別荘が立地するなど,三角浦は保養都市として機能してきた。 また,明治20年(1887)に内務省雇いのオランダ人技師ムルデルの設計により近代港湾が建設され,三角港は屈指の拠点港として隆盛した。築港と同時に計画的な市街地が整えられ,商業地区及び司法・行政地区等が設置された。道路・水路等から成る建設当初の都市構造を現在まで継承しながら,三角浦は港湾都市として機能してきた。 このように,三角浦の文化的景観は,保養都市及び特に近代以降に大きく発展した港湾都市という2つの都市機能が複合した文化的景観である。
詳細解説▶
詳細解説
三角浦は熊本県中西部に位置し、宇土(うと)半島と天草諸島最北部の大矢野島(おおやのじま)に挟まれた三角ノ瀬戸に面して展開する集落である。三角ノ瀬戸は、周辺の海域の中でも水深が深く、湾内は比較的穏やかで暴風・波浪等の影響を受けにくいため、三角浦は古代より八代海と島原湾とを結ぶ南北方向及び九州内陸部と天草諸島とを結ぶ東西方向の流通・往来の結節点として機能してきた。 東西を溶岩ドームによる山体に挟まれた三角ノ瀬戸は、変化に富んだ海岸地形を成している。そのため、 16世紀後半に島津氏家老の上井覚兼(うわいかくけん)(1545-1589)が中国蘇州の水辺景観に準えて和歌を詠むなど、古くから景勝地として知られてきた。近代になると、風光明媚な土地柄のみならず、三角港築港により新たに整備された港湾都市そのものが多くの人々の興味を引き、与謝野鉄幹・北原白秋などの紀行文である『五足の靴』及び小泉八雲の小説『夏の日の夢』等にも描かれた。また、明治37年(1904)には三角岳山腹に細川公爵別邸が建設されたほか、同時期に熊本を本拠地とする第六師団の保養地に指定された。現在も熊本などに居住する都市住民の別荘が立地するなど、三角浦は保養都市として機能してきた。 近世までの三角浦では、三角岳の山頂から急斜面が海中へと落ち込む地形であることから、海上交通の要衝として番所が置かれていたものの集落は発達していなかった。明治14年(1881)、近代港湾の建設を望む熊本県の要請を受けて、内務省雇いのオランダ人技師ムルデルが調査を行い、三角浦の北西部に拠点港湾の築港が計画された。長さ756m、高さ6.3mから成る岸壁には、三角ノ瀬戸の対岸の飛岳等から産出する安山岩を用いて、3箇所の浮桟橋及び4箇所の階段を設けた。 明治20年(1887)に竣工すると、三角港は、石炭・化学肥料・セメント等のほか特に北部九州の米を移出する屈指の拠点港として隆盛し、三角浦は港湾都市として発展した。 ムルデルは築港と同時に道路を整備し、鉄道・運河等の計画を提案した。三角岳の斜面を開削し、埋め立てて造成した沿岸の平坦地に幅員約10mの道路を敷設した。その沿道の海側に倉庫群を、山側に旅館・問屋街をそれぞれ配置して商業地区としたほか、山手の傾斜面には公共建築物を配置して司法・行政地区とした。また、谷の奥まった位置には遊郭等を配置して遊興地区とした。こうして三角ノ瀬戸の北岸に計画的な港湾都市を完成させた。沿道の建物の大小により幅員を変えた道路や、山際及び市街地の東西に敷設された石造の水路など、都市整備の当初の構造は現在も継承されている。 このように、三角浦の文化的景観は、宇土半島西端の流通・往来の結節点において、保養都市及び港湾都市 という2つの都市機能が複合して形成された景観地である。明治期の国家的な築港事業及びそれに伴って整備された計画的な都市の地割りが現在にも継承された希有な事例であり、我が国民の生活・生業を理解するため欠くことができない景観地であることから、重要文化的景観に選定し、保存・活用を図るものである。