国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
重要文化的景観
主情報
名称
:
伊庭内湖の農村景観
ふりがな
:
いばないこののうそんけいかん
解説表示▶
種別1
:
重要文化的景観
種別2
:
面積
:
260.1 ha
その他参考となるべき事項
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選定番号
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選定年月日
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2018.10.15(平成30.10.15)
追加年月日
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選定基準
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所在都道府県
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滋賀県
所在地(市区町村)
:
解説文:
詳細解説
湖東平野中央部に位置する伊庭内湖,水路が発達した集落と周辺の水田,繖(きぬがさ)山の一峰である伊庭山(いばやま)からなる。伊庭集落は,琵琶湖最大の内湖であった大中(だいなか)の湖(こ)に流入する伊庭川の三角州上の微高地に形成された集落であるが,内湖の干拓を経て,現在は伊庭内湖と呼ばれる大中の湖西端部,須田川となった小中の湖北端部に接する。集落東の繖山の豊かな湧水を源流とする伊庭川が集落中央を西へ流れ,縦横に発達した水路を介して水田に分水し伊庭内湖に注ぐ。近世,集落は現在の小字に継承される独立性の高い七つの町で構成されており,町の境界の多くは主要な水路と重複することが確認できる。水路の水は農業のみならず,各敷地から水路に延びる階段状のカワトを介し,魚の畜養など生活の中で利用されている。自動車の普及以前は舟運が中心で,水路を日常生活の主要経路とする屋敷構えが行われた。土地を最大限に利用するため,水路の石積み直上に建てられた「岸建ち」と呼ばれる建造物も特徴である。伊庭山から神輿を引きずり下ろし,集落を経由し伊庭内湖まで巡行する伊庭祭では,かつては水路を経路としていた。
伊庭内湖の農村景観は,琵琶湖岸における水の利用及び居住の在り方を知る上で欠くことのできないものとして重要な景観地である。
関連情報
(情報の有無)
指定等後に行った措置
なし
添付ファイル
なし
解説文
湖東平野中央部に位置する伊庭内湖,水路が発達した集落と周辺の水田,繖(きぬがさ)山の一峰である伊庭山(いばやま)からなる。伊庭集落は,琵琶湖最大の内湖であった大中(だいなか)の湖(こ)に流入する伊庭川の三角州上の微高地に形成された集落であるが,内湖の干拓を経て,現在は伊庭内湖と呼ばれる大中の湖西端部,須田川となった小中の湖北端部に接する。集落東の繖山の豊かな湧水を源流とする伊庭川が集落中央を西へ流れ,縦横に発達した水路を介して水田に分水し伊庭内湖に注ぐ。近世,集落は現在の小字に継承される独立性の高い七つの町で構成されており,町の境界の多くは主要な水路と重複することが確認できる。水路の水は農業のみならず,各敷地から水路に延びる階段状のカワトを介し,魚の畜養など生活の中で利用されている。自動車の普及以前は舟運が中心で,水路を日常生活の主要経路とする屋敷構えが行われた。土地を最大限に利用するため,水路の石積み直上に建てられた「岸建ち」と呼ばれる建造物も特徴である。伊庭山から神輿を引きずり下ろし,集落を経由し伊庭内湖まで巡行する伊庭祭では,かつては水路を経路としていた。 伊庭内湖の農村景観は,琵琶湖岸における水の利用及び居住の在り方を知る上で欠くことのできないものとして重要な景観地である。
詳細解説▶
詳細解説
伊庭内湖の農村景観は、琵琶湖東岸中央部に形成された石積みの水路が卓越した集落と周辺の農地、内湖、山林からなる農村景観である。 琵琶湖の湖岸には、沿岸流によって形成された砂堆の背後に、琵琶湖へ流入する河川による土砂堆積が及びにくい場所に、多くの内湖が形成されていた。最大の内湖であった大中(だいなか)の湖(こ)は、湖東平野中央部において鈴鹿山脈に源を持つ愛(え)知(ち)川(がわ)による土砂堆積が及びにくい場所に形成され、その南には小中(しょうなか)の湖(こ)、西(にし)の湖(こ)が接続していた。伊庭集落は、大中の湖に西から流入する伊庭川の三角州上に形成され、南は小中の湖と接していた。昭和18年(1943)に始まる干拓により、現在は水面として残された伊庭内湖と呼ばれる大中の湖西端部、須田川となった小中の湖北端部に接する。集落の東にある孤立山塊である繖(きぬがさ)山(433m)を除けば平坦な地勢であり水田が広がる中の微高地に集落が形成されている。集落中央には繖山麓の湧水を源流とする伊庭川が西へ流れ、縦横に発達した水路に分水し伊庭内湖に注ぐ。年間を通して温暖な気候であり豊かな伏流水により潅漑の不足がない土地だが、かつては台風の影響を受けやすく湖水面の上昇により洪水に見舞われた。 中世以前の文献は乏しいものの、近江守護佐々木六角氏の守護代伊庭氏を支えた地域であったと考えられる。近世初頭には幕領となり近江国奉行小堀政一らが治め、元禄11年(1698)には旗本三枝氏が知行し、明治維新まで伊庭集落内に陣屋を置いて湖東の領地経営の拠点とした。この時期伊庭集落は、西殿・東殿など現代の小字名に継承される独立性の高い7つの町で構成されており、町の境界の多くが主要な水路と重複することが確認できる。近世の伊庭集落は伊庭村に属し、中山道の湖岸寄りの幹線である朝鮮人街道と湖上交通の拠点である港湾を有する能登川集落などの枝郷を擁していた。『五街道分間延絵図』(文化3年(1806))に収められた「朝鮮人道見取絵図」からは、伊庭村は安土と彦根の間における水陸交通の結節点としての機能を持ち、伊庭集落には人家や社寺が集積し水路が発達していた様子を読み取ることができる。伊庭村の主たる生業は農業であり、延宝7年(1679)の検地では村内面積の約半数が上田であり、生産基盤に恵まれた村であったことがわかる。明治13年(1880)には枝郷と分村し伊庭集落の範囲が伊庭村となった。同年刊行の『滋賀県物産誌』によると伊庭村は人口1、984人、戸数496戸を数え、かつての城下町に次ぐ人口を有していた。農家は317戸であり麻布製造、採藻、採泥、漁業に従事したとある。伊庭村の舟は漁業にも用いられる小型農業用の舟で、所有数は482艘で1軒1艘の割合に上った。商業戸数比率は彦根や同規模の集落と比べて高く、麻布製造が盛んで広く関西に出荷されていた。明治時代には、湖東における商業機能を備えた農村集落であったと言える。 伊庭内湖の農村景観は、繖山の一峰である伊庭山(いばやま)、集落と周辺の農地、伊庭内湖からなる。耕地整理事業に伴い作成されたと考えられる『大字伊庭字限図』の分析からは、昭和初期には集落内の9割以上の宅地が水路に面し、水路に延びる階段状のカワトが設けられていたこと、敷地は水路に面する幅が狭く奥行きが深い形状であったことが明らかになった。水路法面は繖山の流紋岩が用いられた石積みで、地域の石屋の手によると言われている。昭和30年代から自動車の普及により舟が利用されなくなっていったが、それ以前は水路を日常生活の主要動線とする屋敷構えが行われた。舟による水田や内湖への移動や採藻、採泥などの農作業の利便性向上のため水路に面して屋敷畑が設けられ、その奥に作業小屋、水路から離れた位置に主屋が配置された。石積み直上に建てられた「岸建ち」と呼ばれる建造物により、限られた敷地を最大限に利用する工夫も見られる。水路脇には有用樹であるカキ・サンショウ・シュロなどが植えられた。現在もこのような配置を持つ敷地や建造物が残り、有用樹や屋敷畑のある敷地が多い。水路の水は農業用水のみならず、イケスを用いた魚の畜養などカワトを介し生活の中で利用されている。伊庭最大の祭りである伊庭祭では、集落のほぼ全員が氏子として産土神を祀る。伊庭山にある繖(さん)峰三(ぽうさん)神社から神輿を引きずり下ろし、集落を巡った後、内湖岸の御旅所まで巡行する。かつては水路に浮かべた舟で集落を回ったが、現在も経路は変わらない。 集落内には、妙楽寺など数多くの社寺や地蔵尊が存在することも特徴である。これらは、宗教組織だけでなく地域組織や同年(どうねん)と呼ばれる男性の年齢組織の活動拠点としての役割を果たしてきた。在地(ざいち)という信仰集団による勧請(かんじょう)吊(つ)りや注連縄、同年により寄付された橋や石燈籠など、地域の紐帯が有形無形の景観形成に寄与している。 自然環境調査からは、水路から内湖・琵琶湖までの水域が、ホンモロコなど希少種を含む多様な淡水魚の生息環境を与えていることが明らかになった。鳥類についても、ミサゴや淡水ガモ類など山林・農地・水域が近接した環境で生息する種が確認された。 昭和50年代には圃場整備事業や農村総合整備モデル事業により伊庭川の流路変更や水路の埋立が計画されたが、住民の運動により、集落外に瓜生川が整備されてもなお、集落内を流れる部分は伊庭川として残されるとともに幅員減少も最小限にとどめられ、多くの水路と石積みが残された。年に一度のオオカワザラエと呼ばれる河川清掃や葦刈り・葦焼きなど、住民の関与により水路及び内湖の環境が維持されている。 このように伊庭内湖の農村景観は、琵琶湖岸の内湖に面した三角州において、町割りとしても機能した石積みの水路網及び岸建ちの建造物が特徴的な集落、それを取り囲む農地・山林からなる農村景観である。琵琶湖岸における水の利用及び居住のあり方を知る上で欠くことのできないものであることから、重要文化的景観に選定して保護を図ろうとするものである。