国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
善通寺
ふりがな
:
ぜんつうじ
棟名
:
金堂
棟名ふりがな
:
こんどう
善通寺金堂 正面
写真一覧▶
地図表示▶
解説表示▶
員数
:
1棟
種別
:
近世以前/寺院
時代
:
江戸後期
年代
:
元禄12年
西暦
:
1699
構造及び形式等
:
桁行三間、梁間三間、一重もこし付、入母屋造、本瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02591
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2012.12.28(平成24.12.28)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
(三)歴史的価値の高いもの
所在都道府県
:
香川県
所在地
:
香川県善通寺市善通寺町三丁目
保管施設の名称
:
所有者名
:
善通寺
所有者種別
:
寺院
管理団体・管理責任者名
:
善通寺金堂 正面
解説文:
詳細解説
善通寺は、善通寺市街の西寄り、香色山の麓に位置する。弘法大師空海の生誕の地と伝え、四国八十八ヶ所霊場の第七十五番札所である。
伽藍は戦国時代に焼失しており、金堂は元禄12年(1699)の再建、五重塔は4代目の塔として幕末に着工し、明治35年に完成した。
伽藍の中央に建つ金堂は、一重、もこし付で、本格的な禅宗様仏殿の形式をもつ。
五重塔は、高さ43メートル、和様を基調として、初重から伸びる心柱など古式を示す。
善通寺の金堂は、四国地方に稀な本格的な禅宗様仏殿の形式をもつ建物として貴重である。また、五重塔は江戸時代の技法による塔婆建築の到達点を示しており価値が高い。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
写真一覧
善通寺金堂 正面
善通寺金堂 内部
写真一覧
善通寺金堂 正面
写真一覧
善通寺金堂 内部
Loading
Zeom Level
Zoom Mode
解説文
善通寺は、善通寺市街の西寄り、香色山の麓に位置する。弘法大師空海の生誕の地と伝え、四国八十八ヶ所霊場の第七十五番札所である。 伽藍は戦国時代に焼失しており、金堂は元禄12年(1699)の再建、五重塔は4代目の塔として幕末に着工し、明治35年に完成した。 伽藍の中央に建つ金堂は、一重、もこし付で、本格的な禅宗様仏殿の形式をもつ。 五重塔は、高さ43メートル、和様を基調として、初重から伸びる心柱など古式を示す。 善通寺の金堂は、四国地方に稀な本格的な禅宗様仏殿の形式をもつ建物として貴重である。また、五重塔は江戸時代の技法による塔婆建築の到達点を示しており価値が高い。
詳細解説▶
詳細解説
善通寺 一棟一基 金堂、五重塔 附 棟札(金堂附) 一枚、棟札(五重塔附) 二枚 善通寺は、善通寺市街の西寄り、香色山の東麓に位置する真言宗善通寺派の総本山で、五岳山と号する。空海生誕の地と伝える四国八十八ヶ所霊場第七十五番札所である。境内は、金堂を中心とする伽藍(東院)と、空海生家の佐伯氏邸宅跡とされる誕生院(西院)の二区画に分かれる。 空海が唐から帰朝した翌年、大同二年(八〇七)の創建と伝え、建長元年(一二四九)に御影堂が建設されて誕生院が開かれた。永禄元年(一五五八)に阿波の三好氏が西讃岐守護代香川氏攻めの本陣を置き、兵火により堂塔を焼失した。天正十五年(一五八七)に讃岐入りした生駒氏の援助により再興、以後、高松城主松平氏や、丸亀城主山崎氏、京極氏などの支援をえて堂塔を順次復興した。 伽藍(東院)は南面に南大門を開き、境内中央に金堂、南大門の北東に五重塔を配し、釈迦堂(旧御影堂)、鐘楼などが建ち並ぶ。 善通寺では、伽藍の金堂、五重塔など八件が平成二十一年十一月二日付けで、誕生院(西院)の奥殿など十九件が平成二十二年四月二十八日付けで登録有形文化財(建造物)となっている。 金堂は、永禄の焼失後、元禄九年(一六九六)四月に再建の勧進が始まり、同十二年八月に上棟した。大工棟梁は竹内甚左衛門盛貞である。 金堂は、東院境内の中央に南面して建つ。基壇は上下二段からなり、下壇は四辺に切込石段をもつ石積の基壇、上壇は延石基壇である。方三間の一重仏堂で、入母屋造本瓦葺とし、四周に裳階を廻らす。柱は、本屋、裳階とも方形の礎石上に直に上部粽付円柱を立て、本屋は内法貫、飛貫、頭貫、裳階は腰貫、内法貫、頭貫で固める。柱上には台輪を廻らし、本屋は禅宗様三手先組物の詰組、裳階は実肘木付出三斗の詰組とする。裳階は海老虹梁で繋ぐが、裳階柱頭高に虹梁を加える特徴を持つ。軒は、本屋が二軒扇垂木、裳階が二軒繁垂木である。妻飾りは二重虹梁大瓶束で中備を蟇股とし、破風拝に三花懸魚をつける。 裳階各面の中央間は双折桟唐戸とする。正面では、中央間両脇を引違格子と菱格子欄間、端間を花頭窓とする。両側面では両脇二間に花頭窓を並べ、背面では両脇二間を縦板壁とする。内法貫と頭貫の間は四周に波連子欄間を入れる。 内部は、全体が敷瓦の四半敷で、本屋背面側中央間を来迎壁とし、和様の壇に禅宗様高欄をつけた須弥壇を設け、薬師如来を安置する。本屋には小組格天井を高く張る。 全体として禅宗様仏殿の形式をとるが、柱足元礎盤の省略、裳階海老虹梁下の虹梁の付加、正面中央両脇間の格子、本屋の小組格天井など和様の要素が取入れられる。創建金堂は、裳階付の二重仏堂であったとの伝えがあり、禅宗様仏殿の形式を借りてこれを再現しようとしたものともみえる。 五重塔は、前身建物が天保十一年(一八四〇)に焼失、弘化二年(一八四五)に再建を発願、安政元年(一八五四)に着工し、慶応三年(一八六七)に棟梁初代橘貫五郎により二重まで組立、明治十年から二代橘貫五郎により同十五年に五重まで組立、相輪など未完のまま落慶法要が行われた。相輪は同三十四年に西原猪太郎により制作され、大平平吉を棟梁として造作を整え、同三十五年にようやく竣工した。 石造擬宝珠高欄付の基壇上に建つ方三間の木造五重塔婆で、本瓦葺である。礎石上から相輪先端まで、高さ四三・〇メートルを計る。初重柱は、礎石立で、地長押、腰長押、内法長押、頭貫で固め、柱上に台輪を廻らせる。四天柱は井桁に組んだ二重柱盤まで延び、この上に二重の四天柱と側柱が立つ。心柱は五重小屋内から鎖で吊り、初重心礎の直上に達している。組物は、二本の尾垂木をもつ三手先で、尾垂木は初層を龍頭と象頭、四重を拳鼻、五重を雲形に造る。中備は間斗束である。軒は二軒繁垂木とする。二重以上に擬宝珠高欄付の縁を廻らせ、拳鼻付平三斗の腰組で飾る。 初重の各面は中央間を桟唐戸、脇間を横板壁とする。二重以上も同様に各面中央間に桟唐戸を開き、脇間を板壁とする。 初重内部は、床を地長押高さの拭板張とし、四天柱内側の四方に仏壇を設けて金剛界四仏を安置する。四天柱内側は格天井、周囲は小組格天井とする。二重以上の各重にも床を張り、梯子を設けており、五重の心柱東面に厨子を取付けて大日如来を安置する。近世後期から参拝者を塔婆に登らせる例が見られるが、この塔では当初から五重での参拝を想定したものである。 五重塔は、初重に縁がなく和様塔婆の古式を示すが、扉や組物などに禅宗様を加味しており、組物などの細部には各棟梁の個性も認められる。 善通寺の金堂は、様式の混交、折衷が進む江戸中期において、四国地方には稀な本格的な禅宗様仏殿の形式を呈する。また、五重塔は、三代の棟梁により長期にわたって建設されたが全体として均整がとれており、近世の技法による層塔建築の到達点を示す大規模な五重塔婆である。善通寺の金堂と五重塔は、古代に由緒をもつ四国霊場寺院における近世再建の仏堂、塔婆として価値が高い。 【参考文献】「香川県の近世社寺建築」香川県教育委員会、一九八一年 「香川県の近代和風建築」香川県教育委員会、二〇一〇年
関連情報
附指定
棟札
関連情報
附指定
附名称
:
棟札
附員数
:
1枚