国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧苅田家住宅(岡山県津山市勝間田町)
ふりがな
:
きゅうかんだけじゅうたく
棟名
:
主屋
棟名ふりがな
:
おもや
旧苅田家住宅 主屋 正側面(北東から見る)
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/民家
時代
:
江戸後期
年代
:
寛政頃
西暦
:
1789-1800頃
構造及び形式等
:
店舗及び座敷 桁行19.7m、梁間9.9m、二階建、切妻造、各面下屋附属、桟瓦及び本瓦葺、南面突出部 桁行7.9m、梁間5.9m、三階建、東面及び南面下屋附属、西面庇付、入母屋造及び寄棟造、桟瓦葺、新座敷及び玄関 桁行3.9m、梁間7.8m、切妻造、北面下屋、東面玄関附属、桟瓦葺、東南各面庇付、杉皮葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02651
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2016.07.25(平成28.07.25)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(三)歴史的価値の高いもの
重文指定基準2
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
所在都道府県
:
岡山県
所在地
:
岡山県津山市勝間田町17番地
保管施設の名称
:
所有者名
:
津山市
所有者種別
:
市区町村
管理団体・管理責任者名
:
旧苅田家住宅 主屋 正側面(北東から見る)
解説文:
詳細解説
旧苅田家住宅は,旧津山城下の商家町である津山市城東伝統的建造物群保存地区の西部に所在する。苅田家は江戸時代中期に当地で酒造業を始め,江戸時代末期には城下屈指の大店となり,周囲の敷地を取り込みつつ主屋の増築や土蔵群の整備がなされた。主屋は間口の広い町家で,旧城下の町家で最大規模を誇る。内部は充実した接客空間を有し,望楼をもつ二階座敷には近代的な趣向も認められる。
旧苅田家住宅は,主屋の海鼠壁を用いた外観構成などが当地方における町家建築の典型を示すとともに,屋敷構えも江戸時代以降継続して営んだ酒造業の繁栄とともに発展した過程を示しており,当地方を代表する商家の住宅として,歴史的価値が高い。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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旧苅田家住宅 主屋 正側面(北東から見る)
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解説文
旧苅田家住宅は,旧津山城下の商家町である津山市城東伝統的建造物群保存地区の西部に所在する。苅田家は江戸時代中期に当地で酒造業を始め,江戸時代末期には城下屈指の大店となり,周囲の敷地を取り込みつつ主屋の増築や土蔵群の整備がなされた。主屋は間口の広い町家で,旧城下の町家で最大規模を誇る。内部は充実した接客空間を有し,望楼をもつ二階座敷には近代的な趣向も認められる。 旧苅田家住宅は,主屋の海鼠壁を用いた外観構成などが当地方における町家建築の典型を示すとともに,屋敷構えも江戸時代以降継続して営んだ酒造業の繁栄とともに発展した過程を示しており,当地方を代表する商家の住宅として,歴史的価値が高い。
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詳細解説
旧苅田家住宅(岡山県津山市勝間田町) 一〇棟 主屋、三階蔵、米蔵、前蔵、西蔵、大蔵、醤油蔵、新蔵、巽門及び浴室、裏門 岡山県津山市 津 山 市 旧苅田家住宅は、岡山県北東部に位置する津山市の中心部、旧津山城下の城東地区に所在する。津山城は、慶長八年(一六〇三)に美作一八万石に封ぜられた森忠政(一五七〇~一六三四)が、津山盆地のほぼ中央に位置する吉井川北岸の鶴山を本拠に定めて築城したもので、元和二年(一六一六)に完成した。このうち城東地区は、現在も城下町の地割を良く残し、江戸時代の商家を主体として昭和戦前期までに建築された町家がまとまって残ることから、旧町人地の範囲が津山市城東伝統的建造物群保存地区(平成二五年八月七日付け選定)として保存が図られている。 苅田家は、元和八年に近郷の植月村(現勝央町植月)から城下に移住して当初は問屋業を営み、宝暦八年(一七五八)に六代治七郎(一七三五~一七九六)が酒造業を起こしたと伝える。その後、屋号を「栄屋」と称して順調に家業を発展させ、江戸時代後期には「年寄役」や「質屋頭」などの諸役を務める城下屈指の大店となった。明治時代以降も酒造業を本業としながら、銀行業や電力業など新規事業の開拓を積極的に行い、また歴代の当主が町会議員や商工会議所会頭などの要職を歴任するなど地域の発展に貢献している。 旧苅田家住宅の敷地は、伝統的建造物群保存地区の西部に位置し、保存地区を東西に貫く出雲往来に北面する。敷地の東側を路地が通る角地にあり、また敷地全体が、南側を流れる吉井川に向かって緩やかに上っている。敷地の南半は、町人地と武家地の境界である背割溝を越えて鉤形に広がり、敷地の背面が吉井川の旧堤防上につくられた街路に面する。敷地内の様相は、旧町人地にあたる北半と旧武家地にあたる南半で異なる。北半は主に居住に供し、出雲往来に面した敷地の北面いっぱいに主屋を建て、主屋の背面には背割溝を背にして前蔵と西蔵を東西に並べて建てる。また東側面の路地に沿って三階蔵と米蔵を並べて建て、主屋と三階蔵の間に巽門及び浴室を建てて路地に開く。一方、南半は主に業務に供し、醸造蔵である大蔵と醤油蔵、新蔵の三棟が並び建ち、敷地背面の南側は裏門を建てて限る。 敷地が現在の姿に至った経緯は、家屋売買証文や家割図等、各種史料の照合により詳しく知ることができる。享保一五年(一七三〇)に四代源右衛門(一六八六~一七五四)が角地部分にあった間口四間半の町家を買収したのを端緒として、酒造業を起こした治七郎の時代に西側に隣接する町家の買収を進め、宝暦六年に間口九間半、天明八年(一七八八)に間口一二間半、寛政二年(一七九〇)に間口一四間に達し、ほぼ現状の規模となった。さらに、天保三年(一八三二)に八代與惣左衛門(一七七〇~一八三五)が藩から武家地借用の許可を受けて南側に醸造場を拡大し、続いて九代與惣左衛門(一七九四~一八六九)が順次施設の拡充、整備を進め、江戸時代末期には現在の屋敷構えが概ね成立した。 各建物の建築年代は、棟札等により、西蔵が寛政二年、三階蔵と米蔵が天保三年、主屋の新座敷が天保一〇年の建築であることがわかる。また家屋売買証文により、大蔵と醤油蔵が天保五年頃、家相図により巽門及び浴室と新蔵が明治時代の建築であることがわかる。主屋の建築年代は判然としないが、敷地の変遷とあわせてみれば、隣地の買収を始めた宝暦六年以降、寛政二年までの間に建築され、醸造場を南側に拡大した天保三年以降、天保一〇年までに新座敷を含む接客空間を改築、さらに明治三〇年頃に庭園の再整備にあわせて望楼をもつ二階座敷を増築したと考えられる。このほかの建物は、部材の観察や構造形式から、前蔵は西蔵と同時期の寛政二年頃の建築、裏門は前身である武家屋敷の遺構とみられ、江戸時代中期の建築と考えられる。旧苅田家住宅は「苅田家住宅及び酒造場」の名称で平成二三年八月二三日付けで津山市史跡に指定されている。 主屋は、主体部を桁行一九・七メートル、梁間九・九メートル、つし二階建、切妻造、桟瓦葺とする間口の広い建物で、四方に下屋を出し、街路に面する北と東の下屋を本瓦葺とする。さらに、西側につし二階建、切妻造の新座敷及び玄関が軒を連ねて建ち、総長二八・五メートルに及ぶ長大な正面をかたちづくる。背面側の南面中央部には二階座敷が突出する。表構えは、出入口脇の窓に格子、その他の窓に出格子を装置し、一階の腰壁を下見板、二階の腰壁を海鼠壁とする当地方の町家に典型的なもので、表出入口は半間奥まって引違格子戸を構える。街路に面する東側面は、二階以上を塗込とし、水切庇や海鼠壁などを用いて仕上げる。 一階は、東側に幅三間半の土間(ニワ)を通し、その西側に三列に室を並べる。一列目は、表から店之間(ミセ)と店中之間(チョウバ)の二室が続き、その裏に台所の二室が連なる。二列目と三列目の表側は変則的に三室を配し、下手から格子之間、佛間、玄関間を並べ、西側に建つ新座敷及び玄関に接続する。その背面に、二列目は通之間と奥中之間(ウチザシキ)の二室が続き、二階座敷の一階部分に接続する。三列目は次之間と本座敷の二室が続き、西と南に縁を廻して庭園に開く。二階は、土間の正面上部につしを設け、一列目に三室を並べて、裏を二階座敷に接続する。二列目の表側に板間と四畳の室を設け、四畳の西面に神棚を造り付ける。 新座敷及び玄関は、桁行三・九メートル、梁間七・九メートルの規模で、東面前方に平屋建、切妻造の玄関を突出し、玄関間に接続する。内部は、玄関を土間とし、一列三室を並べ、裏の二室を座敷(チャザシキ)とし、東と南に濡縁を廻して庭園に開く。屋根は基本的に桟瓦葺とするが、庭園に面した背面側を本瓦葺、濡縁の庇を杉皮葺とする。 二階座敷は、桁行七・九メートル、梁間五・九メートル、総二階建、入母屋造、桟瓦葺、その上に突出する望楼は桁行三・九メートル、梁間二・九メートルの寄棟造、桟瓦葺である。二階は八畳の座敷と次之間からなる構成で、南と西に縁を廻す。望楼の内部は四畳半の室で、棹縁天井を矢筈に張り、東西南の三方の全面を窓として、高欄付の小縁を廻らす。 三階蔵は、桁行六・八メートル、梁間四・九メートル、三階建、切妻造、本瓦葺の土蔵で、西面の北寄りに扉口を開く。各階とも一室で、家財道具類を収納した。扉口を土戸、窓を銅板包扉とし、それぞれ桟瓦葺の庇を付けるほか、各所に水切瓦を付け、腰壁や壁の四隅を海鼠壁で丁寧に仕上げる。 米蔵は、桁行七・九メートル、梁間五・九メートル、二階建の土蔵で、北面の西寄りに扉口を開く。構造や意匠の形式は概ね三階蔵と共通するが、窓の庇や水切瓦は付けず、海鼠壁を一部省略するなど全体に簡素な仕上げとする。 前蔵は、桁行九・九メートル、梁間七・九メートル、二階建、切妻造、本瓦葺の土蔵で、東面に突出部を設け、さらにその北に下屋を出して米蔵の扉口に接続する。突出部は一階を吹放しの通路とし、二階に四畳半の室を二間設ける。 西蔵は、桁行一〇・五メートル、梁間七・九メートル、二階建、切妻造、本瓦葺の土蔵で、西面に突出部を設ける。 前蔵と西蔵は類似した意匠をもち、窓の庇に桟瓦葺の庇を付け、腰壁や壁の四隅を海鼠壁で仕上げる。建築当初から醸造蔵として使われたと考えられ、現在は二階を渡廊下で接続し、また一階の南面をそれぞれ大蔵に開放して、醸造蔵として一体的に利用するようになっている。 大蔵は、桁行一九・七メートル、梁間七・九メートル、二階建、切妻造、桟瓦葺の土蔵で、東と西にそれぞれ幅二間の下屋を出し、東面の二箇所に戸口を開く。西面北端に突出部を設けて新蔵に接続するほか、南北に棟を延ばして南面を裏門、北面を前蔵と西蔵に接続する。主に仕込を行う醸造場の中心となる建物で、内部や外壁は利用状況に応じて適宜改造されている。 醤油蔵は、桁行一八・四メートル、梁間五・九メートル、切妻造、桟瓦葺の土蔵で、西面の二箇所所に戸口を開く。南面は、棟を延ばして裏門に接続する。内部は、基本的に和小屋として単層で利用するが、北側三間半を登梁として部分的に二階を設ける。 新蔵は、桁行一三・七メートル、梁間六・八メートル、二階建、切妻造、スレート葺の土蔵で、大蔵に接続する東面に切妻造、桟瓦葺の屋根を付け、戸口を開く。 巽門及び浴室は、桁行四・五メートル、梁間一・三メートル、切妻造、桟瓦葺である。東面が路地に面して高塀を兼ね、その北半に門を開く。また、南半の屋根を葺き下ろして浴室を設け、煉瓦造の煙突を立てる。 裏門は、桁行二九・〇メートル、梁間四・〇メートル、切妻造、桟瓦葺の長屋門で、中央東寄りに門扉を開く。 旧苅田家住宅の主屋は、津山の旧城下に残る最大規模の町家建築で、構造、平面、意匠等に当地方における典型的な形式を示しており、顕著な地方的特色を有する。また、庭園と一体となった充実した接客空間や、その背面に連なる土蔵群からなる屋敷構成は、江戸時代以降継続して営んだ酒造業の繁栄とともに拡充、整備されたもので、史料等によりその発展過程が明らかであり、望楼をもつ二階座敷を中心に近代における趣向も認められ、当地方を代表する商家の住宅として、歴史的価値が高い。 【参考文献】 『栄屋苅田家住宅及び酒造場調査報告書』(津山市教育委員会 二〇一五年)
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祈祷札
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附名称
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祈祷札
附員数
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二枚