国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
本願寺御影堂
ふりがな
:
ほんがんじごえいどう
棟名
:
棟名ふりがな
:
本願寺御影堂 外観
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/寺院
時代
:
江戸前期
年代
:
寛永13
西暦
:
1636
構造及び形式等
:
桁行62.1メートル、梁間53.8メートル、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
00230
国宝・重文区分
:
国宝
重文指定年月日
:
1913.04.14(大正2.04.14)
国宝指定年月日
:
2014.09.18(平成26.09.18)
追加年月日
:
重文指定基準1
:
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
京都府
所在地
:
京都府京都市下京区堀川通花屋町下る門前町
保管施設の名称
:
所有者名
:
本願寺
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
本願寺御影堂 外観
解説文:
詳細解説
本願寺は,下京区堀川通に面して位置する浄土真宗本願寺派の本山で,西本願寺と通称される。文永9年(1272),親鸞の末娘覚信尼が東山大谷の地に親鸞の遺骨を改葬し,廟堂を建立したことにはじまり,室町時代には多数の門徒を抱える仏教集団に発展した。その後寺地を転々とした後,天正19年(1591)より現在の地で伽藍を整えた。境内の中心には御影堂と阿弥陀堂の両堂が東を向いて並ぶ。
宗祖親鸞の木像を安置する本願寺御影堂は,寛永13年(1636)に上棟した。平面は桁行62.1メートル,梁間48.3メートルで,江戸時代の建築として現存最大級の規模を誇る。外陣部は多数の門徒を収容するために441畳もの広さを有し,太い柱が林立して上部に虹梁を架け渡し,広大な内部空間を実現している。内陣まわりは金箔,彫刻欄間,障壁画,彩色等で荘厳している。建登せ柱や軒支柱,多様な虹梁など,江戸時代前期における高度な架構や技法を駆使している。
本願寺御影堂は,小規模な道場から出発し広壮な仏堂に到達した真宗本堂の頂点に位置づけられる建築である。多数の門徒により支えられ,社会に絶大な影響を及ぼした真宗本山の象徴として,文化史的に大きな意義を有している。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
本願寺御影堂 外観
本願寺御影堂 広縁
本願寺御影堂 外陣
本願寺御影堂 内陣
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本願寺御影堂 外観
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本願寺御影堂 広縁
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本願寺御影堂 外陣
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本願寺御影堂 内陣
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解説文
本願寺は,下京区堀川通に面して位置する浄土真宗本願寺派の本山で,西本願寺と通称される。文永9年(1272),親鸞の末娘覚信尼が東山大谷の地に親鸞の遺骨を改葬し,廟堂を建立したことにはじまり,室町時代には多数の門徒を抱える仏教集団に発展した。その後寺地を転々とした後,天正19年(1591)より現在の地で伽藍を整えた。境内の中心には御影堂と阿弥陀堂の両堂が東を向いて並ぶ。 宗祖親鸞の木像を安置する本願寺御影堂は,寛永13年(1636)に上棟した。平面は桁行62.1メートル,梁間48.3メートルで,江戸時代の建築として現存最大級の規模を誇る。外陣部は多数の門徒を収容するために441畳もの広さを有し,太い柱が林立して上部に虹梁を架け渡し,広大な内部空間を実現している。内陣まわりは金箔,彫刻欄間,障壁画,彩色等で荘厳している。建登せ柱や軒支柱,多様な虹梁など,江戸時代前期における高度な架構や技法を駆使している。 本願寺御影堂は,小規模な道場から出発し広壮な仏堂に到達した真宗本堂の頂点に位置づけられる建築である。多数の門徒により支えられ,社会に絶大な影響を及ぼした真宗本山の象徴として,文化史的に大きな意義を有している。
詳細解説▶
詳細解説
本願寺御影堂 一棟 京都府京都市下京区 宗教法人 本願寺 本願寺は、龍谷山と号する浄土真宗本願寺派の本山寺院で、下京区堀川通に面して境内を構える。文永九年(一二七二)、親鸞の末娘覚信尼が東山大谷の地に親鸞の遺骨を改葬し、廟堂を建立したことに始まり、室町時代の八世蓮如のころには多数の門徒を抱える仏教集団に発展した。寺地は東山大谷、山科、摂津石山などを転々とした後、天正一九年(一五九一)に豊臣秀吉より寺地を与えられ、現在の地で伽藍を整えた。 元和三年(一六一七)の火災により全ての堂舎を焼失したが、翌四年に阿弥陀堂を再建し、続いて御影堂の再建に着手し、寛永十年(一六三三)六月に釿始め、同一二年七月に立柱の儀を行い、同一三年八月に上棟した。造営は本願寺大工の水口家が主導し、大工を水口若狭守宗久、棟梁を水口伊豆守家久が務めた。宗祖五〇〇回忌に向けた宝暦十年(一七六〇)に阿弥陀堂がより大規模に再建され、現在の伽藍が整った。その後五〇年ごとの親鸞の大遠忌に併せて修理が行われたが、五五〇回忌に向けた文化五年(一八〇八)から同七年には小屋組の更新を伴う大修理が行われた。本願寺御影堂は、「本願寺大師堂」として大正二年(一九一三)四月十四日付で特別保護建造物となっている。敷地内には、御影堂を含め国宝五件、重要文化財六件があり、敷地は平成六年三月二十三日付で「本願寺境内」として史跡に指定されている。 御影堂は桁行六二・一メートル、梁間四八・三メートルで、江戸時代以前の建物で現存最大規模を誇る。東を正面として亀腹基壇に建ち、屋根は入母屋造、本瓦葺で、軒は二軒繁垂木、妻飾は二重虹梁大瓶束架構で、壁面は蟇股と波や唐草をあしらった透彫で飾り、大柄な鰭付三花懸魚を付ける。平面構成は主体部が桁行一五間、梁間一二間で前八間を外陣部、後四間を内陣部に大きく区分し、外陣部の内陣寄り二間を矢来間、ほかを外陣とする。外陣部正側面には二間幅の広縁と、一間幅の擬宝珠高欄付の落縁が廻り、正面に木階六級を設け、三間の向拝を付す。内陣部背面には後堂を付けて軒下まで張り出し、後堂から内陣部側面にかけての外壁を大壁とし軒裏まで漆喰で塗り込める。 主体部は太さ約二尺の粽付丸柱、広縁側柱は約二尺角の粽付唐戸面取角柱とする。主体部は長押と頭貫で固め台輪を廻らし拳鼻実肘木付の出組を載せ、中備は蟇股と蓑束とするが、隅の間では邪鬼彫刻とする。主体部と広縁側柱は各柱筋で虹梁を架け、虹梁と一体化した外側拳鼻実肘木付二手先、内側拳鼻実肘木付出組の組物を置き、繋虹梁の中間には大瓶束を立て実肘木付枠肘木で小組格天井を受ける。落縁外には一尺三寸角で面取の軒支柱を一間間隔に立て、足固貫、飛貫、頭貫で固め、広縁側柱とは海老虹梁で柱頂部を繋結し実肘木付平三斗で軒を受ける。向拝は沓石表面に盤木を張り付けた礎盤に几帳面取角柱を立て、頂部を虹梁形頭貫で繋ぎ、端部に象鼻を付ける。組物は前後に拳鼻を付けた実肘木付平三斗、端部を連三斗として彫刻手挟と桁を受け、中備は蟇股とする。 外陣部は、一般的な真宗本堂では桁行を三分割とするが、御影堂ではさらに左右に三間ずつ広げ五分割とすることで桁行規模を広げ、四四一畳もの広さをつくり出している。外陣部の柱は建登せ柱とし、矢来間境及び梁間方向の柱筋を側廻りの柱頂部位置に通した虹梁で繋ぎ、挿肘木および虹梁上の拳鼻実肘木付出組、蟇股および蓑束の中備で全面に張った小組格天井を支え、太い柱が林立した広壮な内部空間を実現している。外廻りの柱間装置は正面中央九間を両折桟唐戸および両開桟唐戸とし、側面の正面より一間を幣軸付きの板唐戸、正面より五間を桟唐戸とするほかは蔀とし、内側に障子を建て込み、正面や側面上部の要所に松菱文欄間を付ける。 中央三間の内陣は床を最も高くあげ、奥の中央一間に来迎壁を立てて須弥壇を構え、厨子内に親鸞の木像を安置する。内陣左右の各三間は余間とし、その外に三間の三ノ間を挟んで二間の飛檐ノ間、一間の鞘ノ間を並べる。床は内陣を漆塗の板間、北鞘ノ間を板敷とするほかは畳敷とし、天井は内陣を折上格天井、ほかを小組格天井とするが、北飛檐ノ間と鞘ノ間は棹縁天井である。内外陣境は柱や長押及び牡丹をあしらった彫刻欄間に金箔を施し、柱の金襴巻や組物の繧繝彩色、極彩色の蟇股などで華やかさを演出し、金箔押の巻障子と障壁画も一体となって荘厳性を高めている。後堂は幅二間で床を板敷、天井を根太天井とし、内陣来迎壁背面に後門を開く。 本願寺御影堂は、我が国において近世現存最大規模を誇る木造建造物である。建登せ柱や軒支柱、多様な虹梁などの高度な架構や技法を駆使し、要所に精緻な彫刻や独特な絵様繰型とともに金箔や障壁画、彩色など高い密度の装飾を施して壮麗な大空間を実現しており、技術および意匠において類まれな建築といえる。小規模な道場から出発して多数の門徒を収容するための巨大な仏堂に到達した真宗本堂の頂点に位置づけられ、我が国の社会に絶大な影響を及ぼした真宗本山の象徴として、文化史的に大きな意義を有している。 【参考文献】 『本願寺史 第二巻』(本願寺史料研究所 一九六八年) 櫻井敏雄『浄土真宗寺院の建築史的研究』(財団法人法政大学出版局 一九九七年) 『重要文化財本願寺大師堂修理工事報告書』(京都府教育委員会 二〇〇九年)