国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
白山神社能舞台
ふりがな
:
はくさんじんじゃのうぶたい
棟名
:
棟名ふりがな
:
白山神社能舞台
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/その他
時代
:
江戸末期
年代
:
嘉永6
西暦
:
1853
構造及び形式等
:
舞台及び楽屋、橋掛、鏡の間よりなる
舞台及び楽屋 桁行14.9m、梁間5.9m、一重、入母屋造、妻入、茅葺、
南面、東面及び北面下屋附属、板葺
橋掛 桁行9.8m、梁間5.0m、一重、両下造、鉄板葺
鏡の間 桁行8.9m、梁間3.9m、一重、西面入母屋造、東面寄棟造、茅葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02424
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2003.05.30(平成15.05.30)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(三)歴史的価値の高いもの
重文指定基準2
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
所在都道府県
:
岩手県
所在地
:
岩手県西磐井郡平泉町平泉
保管施設の名称
:
所有者名
:
白山神社
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
白山神社能舞台
解説文:
詳細解説
白山神社は中尊寺鎮守のひとつで,境内の北方にある。白山神社の神事能は,中尊寺一山の僧侶が伝習して行われた。現存する白山神社能舞台は,嘉永2年(1849)の焼失後,同6年(1853)に竣工したものである。
舞台及び楽屋は東西に長い入母屋造,茅葺で,西半を舞台,東半を楽屋とする。この北面につく橋掛は両下造,鉄板葺の建物で,北東に延び,社殿側にある鏡の間に接続する。鏡の間は,西面は入母屋造,東面は寄棟造の茅葺である。
白山神社能舞台は,正統的かつ本格的な規模と形式の舞台をはじめ,橋掛,鏡の間,楽屋からなり,完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本で唯一といえ,高い価値がある。
また,古刹中尊寺において連綿と続く芸能の場としても,貴重な遺構である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
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白山神社能舞台
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白山神社能舞台
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解説文
白山神社は中尊寺鎮守のひとつで,境内の北方にある。白山神社の神事能は,中尊寺一山の僧侶が伝習して行われた。現存する白山神社能舞台は,嘉永2年(1849)の焼失後,同6年(1853)に竣工したものである。 舞台及び楽屋は東西に長い入母屋造,茅葺で,西半を舞台,東半を楽屋とする。この北面につく橋掛は両下造,鉄板葺の建物で,北東に延び,社殿側にある鏡の間に接続する。鏡の間は,西面は入母屋造,東面は寄棟造の茅葺である。 白山神社能舞台は,正統的かつ本格的な規模と形式の舞台をはじめ,橋掛,鏡の間,楽屋からなり,完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本で唯一といえ,高い価値がある。 また,古刹中尊寺において連綿と続く芸能の場としても,貴重な遺構である。
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詳細解説
白山神社能舞台 一棟 白山神社は中尊寺鎮守のひとつで、境内の北方にある。草創については明らかでないが、『吾妻鏡』文治五年(一一八九)九月十七日条に「日吉社 鎮守即南方崇敬、白山宮 北方勧請(前後略)」とあり、平安時代後期には存在していた。鎌倉時代末期には荒廃していたと考えられ、天正一七年(一五八九)の再興棟札(中尊寺所蔵)に「再興造営一宇社旦」とあり、建築群の構成や形式については不明であるが社殿の再興があったことが知られる。 近世に入り、白山神社における卯月初午の神事祭礼は、中尊寺の恒例年中行事でも重視され、特に神事能は中尊寺一山の僧侶が伝習して連綿と行われた。寺伝には、伊達政宗が元和四年(一六一八)に中尊寺を巡歴した際、古来の田楽能を改め、以後、猿楽能を神事能として演ずるよう申し渡し、装束や面等を新調させたという。二代藩主の伊達忠宗も能を好み、中尊寺に喜多流を演ずるよう所望したされる。慶安五年七月二八日の「白山社々壇再建願書」(円乗院蔵『摩訶雑記』所載)には、「鎮守白山権現社於拝殿、毎年祭禮従極月晦日正月八日迄、衆徒中宮籠修正之法行、國泰民安太守公御武運長久之御祈祷仕、牛玉願守正月御城指上申候、四月初午神事、式三番、獅子、田楽、於于今無懈怠相勤候、然処、右白山之御社、正保三年之地震破損荒野也、(前後略)」とあり、四月初午の神事が恒例であったことがわかる。 正保三年(一六四六)の大地震で崩壊した社殿は、伊達藩の援助で再建され、天和三年(一六八三)には屋根替が行われた。この社殿は南面する本殿の南側に細長の拝殿が建つ構成と知られるが、嘉永二年(一八四九)の火災で焼失した。『鎮守白山宮焼失記録』(中尊寺所蔵)によると、焼失した拝殿は長床と称し、桁行五間(四三尺)、梁間二間(一七尺)の細長い茅葺建物で南面して建っていたことがわかる。 現存する白山神社能舞台はこの火災後に建てられたもので、嘉永六年(一八五三)には竣工した。同六年「白山宮御拝殿御再建記」(中尊寺所蔵)には、拝殿や能舞台の再建経過が克明に記され、同六年「上西谷寛済一和尚勤役中自分控」(釈尊院所蔵)には、嘉永七年四月の神事能について「如例年之御能番組吟味之事」とあり、能舞台の竣工は嘉永六年と考えてよい。能舞台は白山神社社殿の南側に位置し、舞台及び楽屋は東西に長い建物で、この北面に橋掛がつき、北東に延びて、社殿側にある鏡の間に接続する。 舞台及び楽屋は東西棟の入母屋造、茅葺で、軒は一軒疎垂木、妻飾は狐格子、鰭付かぶら懸魚をつける。平面は西半を舞台、東半を楽屋とし、楽屋の南面、東面及び北面には板葺の下屋庇を廻す。 舞台は一辺五・九メートル(京間三間)の方形で、西を正面、北を白山神社に面した脇正面とし、南に高欄付の脇座、東に後座を設ける。軸部は隅に角柱四本を土台上に立て、縁長押と頭貫で結び、柱上に実肘木付三斗を組み、二つの中備蟇股を配し、桁を受ける。舞台上は化粧屋根裏天井で、簑束で受ける化粧棟木には吊金具をつけ、後座は棹縁天井を張り、床は拭板敷とする。南・西・北の柱間は開放とし、後座の東と南の鏡板は縦板壁で、老松と若竹を描き、楽屋との出入に切戸口をつけ、脇座には竹の節欄間付の脇障子を設ける。南・北の柱間には半蔀を吊るが、これは養生のためである。鏡板の絵は、昭和二二年に能画家松野奏風の彩管になり、当初の鏡板を裏返して描いている。舞台側の板面は現在楽屋側に向いているが、当初より何も描いていない。舞台床下は大甕を置かず、擂り鉢状に掘り下げる。 楽屋は南と東及び北に下屋庇を付けて六・八メートル四方の規模とし、南に出入口を設ける。軸部は角柱を立て、桁を受け、内部は天井を張らない。柱間装置は南の出入口に舞良戸、北東の出入口に障子を建て込み、他を連子窓と横板壁とする。 橋掛は西面桁行九・八メートル、梁間五・〇メートル、一重、両下造、鉄板葺である。梁間西側の二・五メートルが左右高欄付の橋掛で、板床を挟んで東に板壁を建て、この東側を吹き放しの土間廊下として、楽屋と鏡の間を緊密に連絡する。棟木は西側中央に通し、東と西に疎垂木を配り、東側に低く降ろす。この東側は低い床となっているが、当初は土間と考えられる。 鏡の間は、桁行八・九メートル、梁間三・九メートル、一重、西面入母屋造、東面寄棟造、茅葺である。周囲に高い角柱を立て、舞台とほぼ同じ軒高とする。内部は間仕切のない一室で、天井も張らない。柱間装置は南面が橋掛部分を藁座吊両開き板戸、土間廊下部分を吹放し、両端を窓とする。西面は北端を板戸引違い、北面は東より第二間を窓、その他は東面を含め板壁とする。 白山神社能舞台は、正統的かつ本格的な規模と形式の舞台をはじめ、橋掛、鏡の間、楽屋からなり、意匠や機能上の工夫にも独自性が認められ、価値が高い。また、完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本で唯一といえ、古刹の中尊寺山内において近世より連綿と続く芸能の場として、わが国の芸能史を考える上で、貴重な遺構である。 【参考文献】 『中尊寺白山社の沿革と能舞台について』(平泉町教育委員会 一九七六年) 『平泉町史 史料編一』(平泉町史編纂委員会 一九八五年) 『岩手県の近世社寺建築‐近世社寺建築緊急調査報告書‐』(岩手県教育委員会 一九八九年) 藤島亥次郎監修『平泉 中尊寺毛越寺の全容』(一九八〇年/一九九一年改訂)