国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
松江城天守
ふりがな
:
まつえじょうてんしゅ
棟名
:
棟名ふりがな
:
松江城天守
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員数
:
1棟
種別
:
近世以前/城郭
時代
:
桃山
年代
:
慶長16
西暦
:
1611
構造及び形式等
:
四重五階、地下一階付、本瓦葺
南面附櫓 一重、本瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
00953
国宝・重文区分
:
国宝
重文指定年月日
:
1935.05.13(昭和10.05.13)
国宝指定年月日
:
2015.07.08(平成27.07.08)
追加年月日
:
重文指定基準1
:
重文指定基準2
:
所在都道府県
:
島根県
所在地
:
島根県松江市殿町一番地続六
保管施設の名称
:
所有者名
:
松江市
所有者種別
:
市区町村
管理団体・管理責任者名
:
松江城天守
解説文:
詳細解説
松江城は,松江市街の中心部,亀田山に築かれた平山城である。慶長5年(1600)に出雲・隠岐の領主となった堀尾氏が,同12年より築城を開始し,同16年にほぼ完成した。現在の天守はこの時につくられたものである。
外観は四重,内部五階,地下一階の形式で,正面の南面には玄関となる附櫓を設け,屋根はすべて本瓦葺である。軸部は長さ二階分の通し柱を多用しており,周囲に包板)を釘や鎹,帯鉄で取り付けた柱も多数見られる。部材の番付は二種類に大別され,二階以下に用いられた分銅紋に「富」の字を刻む部材は,安来市にあった富田城の部材と思われる。
松江城天守は,中国地方に唯一残る荘重雄大な四重五階の天守である。最近になって再発見された二枚の祈祷札から,慶長16年(1611)の完成が明らかとなった。
通し柱による構法などの独自の建築的特徴を有し,近世城郭最盛期を代表する建築として極めて高い価値がある。防御性を重視した中世山城から,高層化して近世都市の基軸へと進展してきた我が国の城郭文化の様態をあらわしており,深い文化史的意義がある。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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松江城天守
松江城天守
松江城天守 一階
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松江城天守
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松江城天守
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松江城天守 一階
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解説文
松江城は,松江市街の中心部,亀田山に築かれた平山城である。慶長5年(1600)に出雲・隠岐の領主となった堀尾氏が,同12年より築城を開始し,同16年にほぼ完成した。現在の天守はこの時につくられたものである。 外観は四重,内部五階,地下一階の形式で,正面の南面には玄関となる附櫓を設け,屋根はすべて本瓦葺である。軸部は長さ二階分の通し柱を多用しており,周囲に包板)を釘や鎹,帯鉄で取り付けた柱も多数見られる。部材の番付は二種類に大別され,二階以下に用いられた分銅紋に「富」の字を刻む部材は,安来市にあった富田城の部材と思われる。 松江城天守は,中国地方に唯一残る荘重雄大な四重五階の天守である。最近になって再発見された二枚の祈祷札から,慶長16年(1611)の完成が明らかとなった。 通し柱による構法などの独自の建築的特徴を有し,近世城郭最盛期を代表する建築として極めて高い価値がある。防御性を重視した中世山城から,高層化して近世都市の基軸へと進展してきた我が国の城郭文化の様態をあらわしており,深い文化史的意義がある。
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詳細解説
松江城天守 一棟 島根県松江市 松江市 松江城は、松江市街の中心部、標高二九メートルの亀田山に築城された平山城である。東から南及び西には城下町が形成され、宍道湖と中海を結ぶ大橋川が天然の外堀となっている。明治八年には御殿や櫓などの諸々の建造物が民間に払い下げられ、当初からの縄張りと堀及び石垣などはよく残るが、近世の城郭建築は天守のみが現存する。 遠江を治めていた堀尾氏は、関ヶ原合戦などにおける行賞により、慶長五年(一六〇〇)に出雲と隠岐の二四万石の領主として出雲に入った。最初はかつて尼子氏が居城とした富田城に入城した。富田城は、松江城から南東約一六キロメートルの山間部、安来市広瀬に所在する典型的な中世の山城である。標高一九〇メートルの月山山頂に本丸を構え、中腹に山中御殿、下段に花ノ壇、千畳平などの郭をそなえ、飯梨川沿いの平坦地に城下町を構えていた。 堀尾氏は、地勢の難や交通の便などから、亀田山の地を選んで富田城からの移転を計画し、同一二年より築城をはじめ、同一六年にはほぼ完備した。現在の天守はこの時のもので、完成は近年に再発見された二枚の祈祷札から明確となった。松江藩主は堀尾氏が三代で断絶、続く京極忠高も一代で、寛永一五年(一六三八)に松平直政が信濃松本城から移り、以後、松平氏一〇代が治世した。延宝、元禄、元文、寛保、文化に部分修理があったことが知られ、適切に維持された。明治二七年にも修理が行われ、昭和一〇年に国宝保存法により国宝に指定され、その後、文化財保護法による重要文化財となった。昭和二五年六月に着手した解体修理工事は同三〇年三月に完了し、現在に至っている。 天守は山頂に構えた本丸の北東端に位置し、自然石を主体とする天守台石垣上に南面して建つ。外観は四重、内部五階、地下一階の形式で、二重目と四重目は東西棟の入母屋造、二重の南と北には入母屋造破風の出窓をつけ、正面の南面には玄関となる一重一階の附櫓を設けて地階への入口とし、屋根はすべて本瓦葺である。外壁は初重と二重が総下見板張、三重と四重及び附櫓が下部下見板張に上部漆喰塗とし、二重上の出窓は漆喰塗、内壁はすべて真壁造とする。各重の四面には突上板戸建の連子窓を配し、要所に鉄砲狭間や矢狭間をあけ、南と北の出窓中央に花頭窓をつける。四重は四面とも板戸建込の窓で、横桟三筋の手摺を廻している。 平面は各階とも桁行に相当する東西方向に少し長く、一階と二階が同規模、三階と四階も同規模であるが隅の出入りで四階を逓減させる。一階と二階は四周を幅二間の武者走りとし、四階の一部を除いて各階とも間仕切りがないが、柱列と内法貫で区画される。五階は四周を幅半間の入側とし、内部は内法小壁で東西二室に分ける。一階から五階は板敷、根太天井であるが、五階は四周を化粧屋根裏とするのみで天井を設けず梁組を現している。地階はほぼ正方形の平面で、ほぼ中央に石積塩貯蔵場は平瓦敷の土間床とし、ほかは板敷である。附櫓は不整形な四角形平面で、石垣南面の中央西寄りに鉄板張扉の入口を構え、階段を経て地階に登る。 軸部は太い柱と梁を組み、貫で堅牢に固め、長さ二階分の通し柱を多用している。柱配置は逓減のない階同士を整然と揃えているが、逓減するところでは通し柱を除いて、上下階の柱位置を揃えていない。こうした点は、上に向けて逓減する天守の形態を、二階分の通し柱で達成しようとした構造技法の特色といえる。また、柱寸法は一階から二階が九寸から一・五尺角と太く、三階四階が九寸から一尺角、五階は七寸角であり、上層の方を細くしている。一階から四階の柱のうち、一三〇本は一面から四面に包板を釘、鎹、帯鉄で取り付けている。この包板は二寸から二・五寸と厚く、軸部強化の役割も期待していたと思われる。 部材の番付は地階から二階が彫込番付、三階から五階が墨書番付というように、大きく二群に分かれることが判明した。また当初部材を精査すると、一階二階には多数の古材が用いられており、また二階以下は面皮や曲りがある丸太の形状が多く、三階以上では製材された角材を多く用いているなど、用材や加工に番付と同じような差異が認められる。二階以下の部材には、堀尾氏の家紋である分銅紋に富の字が刻印された部材が含まれており、これらは堀尾氏が最初に居城とした富田城の部材と推定される。これらにより、地階から二階には富田城の部材が多く用いられ、そこに新たに三階以上の部材が加えられたと推定される。 松江城天守は、中国地方に唯一残る荘重雄大な四重五階の天守であって、近年に再発見された祈祷札から慶長一六年の完成が明らかとなり、通し柱による構法や金物を多用した包板の技法などにみられる特徴とともに、近世城郭最盛期を代表する遺構として極めて高い価値がある。 また、当初の部材に転用を示す痕跡を残しており、高層化による象徴性を達成した松江城天守は、防御性を重視した中世の山城から近世都市の基軸となる城郭へと進展してきた我が国の城郭文化の様態をあらわすものとして、深い文化史的意義が認められる。 なお、慶長一六年の祈祷札二枚、鎮宅祈祷札四枚、鎮物三点を附指定として保存する。 【参考文献】 『重要文化財松江城天守修理工事報告書』(重要文化財 松江城天守修理事務所 一九五五年) 『重要文化財松江城天守保存修理工事報告書』(松江市 一九八二年) 『日本建築史基礎資料集成 十四 城郭Ⅰ』(中央公論 美術出版 一九七八年) 『松江城天守学術調査報告書』(松江市 二〇一三年) 『重要文化財 松江城天守保存活用計画』(松江市 二 〇一四年) 西和夫『松江城再発見』(松江市 二〇一四年) 『松江城調査研究集録1』(松江市 二〇一三年) 『松江城調査研究集録2』(松江市 二〇一五年)
関連情報
附指定
祈祷札
鎮宅祈祷札
鎮物
関連情報
附指定
附名称
:
祈祷札
附員数
:
2枚
関連情報
附指定
附名称
:
鎮宅祈祷札
附員数
:
4枚
関連情報
附指定
附名称
:
鎮物
附員数
:
3点