国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
東京駅丸ノ内本屋
ふりがな
:
とうきょうえきまるのうちほんや
棟名
:
棟名ふりがな
:
撮影:小野吉彦
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員数
:
1棟
種別
:
近代/産業・交通・土木
時代
:
大正
年代
:
大正3
西暦
:
1914
構造及び形式等
:
鉄骨煉瓦造、建築面積7,821.39m2、二階建、一部三階建、スレート葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02426
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2003.05.30(平成15.05.30)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
(三)歴史的価値の高いもの
所在都道府県
:
東京都
所在地
:
東京都千代田区丸の内一丁目1番3号
保管施設の名称
:
所有者名
:
東日本旅客鉄道株式会社
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
撮影:小野吉彦
解説文:
詳細解説
東京駅丸ノ内本屋は,皇居から東へ一直線に延びる通称行幸通りの正面に位置している。明治41年3月25日着工,大正3年12月14日に竣工した。設計は辰野金吾で,辰野葛西事務所によって実施案がまとめられた。
南北折曲り延長約335mに及ぶ長大な建築で,中央棟の南北に両翼を長く延ばし,建設当初は,地上3階建であった。建築様式は,いわゆる辰野式フリー・クラシックの様式になる。
東京駅丸ノ内本屋は,わが国鉄道網の起点となる停車場の中心施設であるとともに,明治の市区改正計画に基づき建設された首都東京を象徴する貴重な建築である。
煉瓦を主体とする建造物のうち最大規模の建築で,当時,日本建築界を主導した辰野金吾の集大成となる作品として,価値が高い。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
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撮影:小野吉彦
東京駅丸ノ内本屋
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撮影:小野吉彦
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東京駅丸ノ内本屋
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解説文
東京駅丸ノ内本屋は,皇居から東へ一直線に延びる通称行幸通りの正面に位置している。明治41年3月25日着工,大正3年12月14日に竣工した。設計は辰野金吾で,辰野葛西事務所によって実施案がまとめられた。 南北折曲り延長約335mに及ぶ長大な建築で,中央棟の南北に両翼を長く延ばし,建設当初は,地上3階建であった。建築様式は,いわゆる辰野式フリー・クラシックの様式になる。 東京駅丸ノ内本屋は,わが国鉄道網の起点となる停車場の中心施設であるとともに,明治の市区改正計画に基づき建設された首都東京を象徴する貴重な建築である。 煉瓦を主体とする建造物のうち最大規模の建築で,当時,日本建築界を主導した辰野金吾の集大成となる作品として,価値が高い。
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詳細解説
東京駅丸ノ内本屋 一棟 東京駅丸ノ内本屋は、皇居和田倉門から東へ一直線に延びる通称行幸通りの正面に位置する。 明治二二年、東京府知事より告示された東京市区改正計画の一環として、新橋、上野両停車場を結ぶ市内貫通高架線の建設が定められ、翌二三年九月、内務大臣から鉄道庁長官に対し東京市中央に停車場を設置するなどの訓令が発せられた。日本鉄道会社は、これを受け路線調査、計画を当時九州鉄道会社技師長であったドイツ人鉄道技師ヘルマン・ルムシュッテル(H. Rumschöttel)に委嘱し、同氏により煉瓦拱橋による高架路線計画が立案された。ルムシュッテルの後を継いだのが後輩ドイツ人技師フランツ・バルツァー(F. Baltzer)で、当時鉄道局を所管した逓信省工務顧問として明治三一年二月より同三六年二月まで在日し、採算面での懸念などから保留となったルムシュッテル案を継承発展し具体案を作成した。 日清戦争終結後、明治二九年の帝国議会において、官設による新錢座・永楽町間の市街高架線と中央停車場の建設費が承認されたにともない、逓信省鉄道局に新永間建築事務所が設置され、測量や用地買収の後、明治三三年、高架線建設に着工した。 中央停車場の建設は、日露戦争の影響や設計変更などにより具体化まで時間を要したが、明治四一年三月二五日に着工、六年後の大正三年一二月一四日に竣工し、同月二〇日開業した。 本屋の設計は辰野金吾で、辰野が葛西萬司とともに開設した辰野葛西事務所によって実施案がまとめられた。明治三六年一二月頃設計依頼があり、予算や機能の見直し等により数度の設計変更を経て、明治四三年一二月に最終案を提出したとされる。実施設計は、葛西萬司以下、当時所員であった松井清足、久恒治助、松本與作らが担当したとされる。工事施工は、鉄骨の製作・組立てが石川島造船所、その他工事は主に大林組が請負った。 本屋は、皇居に向かって西面した南北折曲り延長約三三五メートルに及ぶ長大な建築で、中央棟の南北に両翼を長く延ばし、南北対称の位置に八角広室を配する。建設当初は、地上三階建、一部地階、背面ホーム側に平屋付属部分を付設し、総建築面積約一〇、五〇〇平方メートルの規模を有していた。構造は鉄骨煉瓦造で、鉄骨により架構を組み、これを外壁は煉瓦二枚半積、間仕切は一階より積み上がる部分を二枚積、その他を一枚積で被覆する。床は鉄筋コンクリートで、板張り、敷煉瓦、人造石、アスファルトで仕上げていた。外壁は化粧煉瓦小口張り仕上げとし、腰廻りの化粧積み、窓台、まぐさなどに花崗岩を用い、柱形、開口部枠、バンドコース等を擬石塗で仕上げる。屋根はスレート葺で、各塔屋頂部、棟、軒蛇腹を銅板包みとした。 建築当初の一階平面は、中央棟に皇室用の休憩室、待合室等を配し、南八角広室を乗車口である改札所、北八角広室を降車口である集札所とし、南方屈折部に一、二等待合室、食堂、中央棟と南八角広室間に駅長室、三等待合室、中央棟と北八角広室間に小手荷物交換諸室と事務室、また北端部に待合室をそれぞれ配していた。二、三階は、南半がホテルで、中廊下を通して両側を細かく区画して客室、食堂を配していた。北半各室の詳細は明らかでないが、停車場事務室としたとする。 建築様式は、一九世紀折衷様式であるいわゆる辰野式フリー・クラシックの様式でまとめる。中央棟を中心に左右に翼屋を長く延ばし、南北八角広室部にボリュームのあるドーム屋根を戴き、中央寄りに角塔、両端部に八角塔を配ってアクセントを付ける。正面は、二、三階を通した大オーダーの柱形を連ね、バンドコースを密に通して基壇のように扱った一階部分がこれを支持する意匠構成となる。煉瓦と石・擬石部が赤と白の鮮やかな対比をみせ、中央棟、八角広室軒部分のアーチや隅部の小尖塔など、細部に独特の装飾を配し長大な外観をまとめている。 内部の装飾では、中央棟帝室用各室は壁画、ステインドグラスなどで飾り、床、腰張りは大理石、木部はチーク材シェラック塗りなど、材料、仕上げも上質なものであった。また、帝室用玄関広室の壁・天井、同二階待合室の壁、南北八角広室天井は色漆喰塗りとし、南北八角広室のドームには全長八尺余の石膏製の鷲の塑像を付けて飾った。その他各部屋は特に目立った装飾はなく要所の木部以外は漆喰塗で、事務室の天井は上階床下面を上塗りする程度であった。 本屋は、昭和二〇年五月二五日、戦災により被害を受け、その後の復旧工事において、中央棟及び南北八角広室を除く部分の三階を撤去し、南北八角広室のドーム屋根を廃しマンサード型に改めるなどの変更があった。しかし壁、床等主要構造部の大半や正面外観はよく旧規を残す。 平成一三年度、東京都主催による「東京駅周辺の再生整備に関する研究委員会」において、東京駅丸ノ内本屋についての保存活用の方針が提示された。現在、復原改修工事計画の策定中であり、耐震補強等とともに、失われた三階部分、八角広室ドーム屋根その他、外観に関わる部分を中心に建築当初の姿への復原を予定している。 東京駅丸ノ内本屋は、わが国鉄道網の起点となる停車場の中心施設であるとともに、明治の市区改正計画に基づき建設された首都東京を象徴する建築で、わが国近代の都市形成史を語る上で欠くことのできない重要な遺構である。煉瓦を主体とする建造物のうち最大規模の建築で、その到達点を示すとともに、当時、日本建築界を主導した辰野金吾の集大成となる作品として価値が高い。 【参考文献】 『明治の東京計画』(藤森照信 岩波書店 一九八二年) 『赤レンガの東京駅』(稲垣栄三他 岩波ブックレット二五八 一九九二年) 「東京の鉄道網に骨格形成過程の研究ー鉄道 土木技術が本邦に移転されてから東京の鉄道 網の骨格形成に至る間にその発展に貢献した 内外鉄道土木技術者達ー」(丹羽俊彦 一九 九八年) 「東京駅周辺の再生整備に関する研究委員会 報告書」(社団法人日本都市計画学会 二〇〇二年)