国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧広瀬家住宅
ふりがな
:
ひろせけじゅうたく
棟名
:
主屋
棟名ふりがな
:
しゅおく
旧広瀬家住宅(愛媛県新居浜市) 主屋
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員数
:
1棟
種別
:
近代/住居
時代
:
明治
年代
:
明治10
西暦
:
1877
構造及び形式等
:
木造、建築面積409.82m2、一部二階建、桟瓦葺及び銅板葺、
中門及び塀附属
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02430
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2003.05.30(平成15.05.30)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(一)意匠的に優秀なもの
重文指定基準2
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
所在都道府県
:
愛媛県
所在地
:
愛媛県新居浜市上原二丁目3904番2
保管施設の名称
:
所有者名
:
新居浜市
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
旧広瀬家住宅(愛媛県新居浜市) 主屋
解説文:
詳細解説
旧広瀬家住宅は,住友家(本店)の初代総理人を務めた広瀬宰平の建設した住宅である。明治20年代に移築・新築併せて全体が整備された。
敷地の東側に表門を開き,その西奥に主屋が建ち,これに続いて新座敷,離れを設けるほか,敷地周囲に乾蔵,金物蔵・米蔵,門番所を配している。
2階建の主屋は,2階座敷を望煙楼と称し,新座敷は,大工棟梁八木甚兵衛の手になり,いずれも数寄屋風の意匠を凝らした上質なつくりである。
旧広瀬家住宅は敷地内の建築がほぼすべて残り,改造もほとんどなく,明治中期の大規模和風住宅の姿を今日に伝える遺構として貴重である。
主屋及び新座敷は,眺望を意識した部屋を複数持つなど,住宅機能のみに留まらず迎賓館としての役割を兼ね備えた構成も特徴的であり,高い価値がある。
関連情報
(情報の有無)
附指定
添付ファイル
なし
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旧広瀬家住宅(愛媛県新居浜市) 主屋
旧広瀬家住宅(愛媛県新居浜市) 内観
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旧広瀬家住宅(愛媛県新居浜市) 主屋
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旧広瀬家住宅(愛媛県新居浜市) 内観
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解説文
旧広瀬家住宅は,住友家(本店)の初代総理人を務めた広瀬宰平の建設した住宅である。明治20年代に移築・新築併せて全体が整備された。 敷地の東側に表門を開き,その西奥に主屋が建ち,これに続いて新座敷,離れを設けるほか,敷地周囲に乾蔵,金物蔵・米蔵,門番所を配している。 2階建の主屋は,2階座敷を望煙楼と称し,新座敷は,大工棟梁八木甚兵衛の手になり,いずれも数寄屋風の意匠を凝らした上質なつくりである。 旧広瀬家住宅は敷地内の建築がほぼすべて残り,改造もほとんどなく,明治中期の大規模和風住宅の姿を今日に伝える遺構として貴重である。 主屋及び新座敷は,眺望を意識した部屋を複数持つなど,住宅機能のみに留まらず迎賓館としての役割を兼ね備えた構成も特徴的であり,高い価値がある。
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詳細解説
旧広瀬家住宅 七棟 主屋、新座敷、離れ、金物蔵・米蔵、門番所、乾蔵、表門 旧広瀬家住宅は、住友家(本店)の初代総理人を務めた広瀬宰平の建設した住宅である。宰平は文政一一年(一八二八)、近江国野洲郡八夫村(現在の滋賀県中主町)に生まれ、九歳の時に別子銅山勤務の叔父に伴われて別子に居住、二八歳の時に住友の予州別家である広瀬義右衛門義泰の養子となり、以後別子銅山の経営に尽力し、別子支配人を経て初代住友総理代人となった。 旧広瀬家住宅は、新居浜市市街地を北に見下ろす扇状地に建つ。広瀬家が新居浜に移り住んだのは、義泰の代のことで、天保九年(一八三八)には吹方元締役を勤め、周辺の田畑を所有していたことが知られる。当初は現在の敷地から北へ四キロメートルほど下った金子村字久保田(現在の新居浜市久保田町)の地に居を構えていた。その後宰平の代になり、明治八年から同地に住宅を建築し、同一〇年には竣工している。その後、明治一八年に現在地に移転したものである。 敷地は、北下がりの斜面地を、北側に石垣を設けるなどして整地し、南側を高くとる二段構成で、南側の一段高い部分は、明治三九年に拡張したものである。全体が「広瀬公園」として昭和四三年三月八日に愛媛県の名勝に指定されている。昭和四五年には広瀬家から新居浜市に譲渡され、平成九年以降は広瀬歴史記念館の施設として活用が図られている。 建物は、敷地の北寄りに建つ。東側から敷地内に入る私道突き当たりに表門を開き、さらに路地を西に進んで主屋を設ける。主屋南には渡廊下を介して新座敷を設け、主屋北西には離れを設ける。その西、敷地北西端には乾蔵が建つ。さらに、主屋北東の敷地北端に金物蔵・米蔵を建て、その東側に表門と接して門番所を設ける。この他、乾蔵の西側に裏門、主屋料理場南側には新土蔵・西座敷脇屋、表門外には人力車小屋が建つ。これらの新築並びに移築は大工棟梁二代目八木甚兵衛が指揮した。 裏門は三間一戸の薬医門で、古写真から明治二三年以前の建築である。新土蔵・西座敷脇屋の土蔵部分は、文書等より明治二一年の竣工であるが、昭和期に解体の上一部旧部材を用いて建て直されている。西座敷脇屋部分は、愛媛県西条市に移築されている西座敷本体の敷畳框板墨書から西座敷が明治二一年の竣工で脇屋についても同時期の竣工と思われる。人力車小屋は人力車使用の文書等から明治三〇年代の建築と推察される。さらに、敷地南側の一段高い部分には馨原文庫、靖献堂、広脇神社が、また主屋東方の庭園部分には指月庵、潺潺亭が建ち敷地を画する煉瓦塀・石塀等も残る。 主屋は明治一〇年に大工棟梁を真鍋儀兵衛として久保田に建てた主屋を、明治二〇年に現在地に移築したもので、移築時にその向きを変え、東面して建つ。建築面積四〇九・八二平方メートル、木造二階建、入母屋造、桟瓦葺で、庇の一部を銅板葺とする。一階は北側に土間をとり、床上部は前後左右三列づつの九室の西側北端に台所を張り出し、さらに西側に土間の料理場を設ける。料理場は、明治三三年頃の増築である。北東隅は式台を設ける八畳の玄関とし、その南に次の間八畳、本座敷八畳を配する。中央列は北から六畳、階段室、納戸とし、西列は北から上台所八畳、六畳、八畳の三室を配す。南寄りの六畳と八畳の間には、両側に口を開く暖炉を設けている。上台所の北側には三畳の小部屋を突出し、その西方には一間幅縁を設ける。台所南には風呂場、洗面所を配し、次の間東面には縁を介して便所を設けるとともに、塀を延ばして中門につなげている。北側の三室は根太天井とし、その他の主要室は棹縁天井とする。風呂場、洗面所周りについては後補で、新土蔵の改造時期とほぼ同じ頃(昭和初期)である可能性が高い。 二階は、北東に「望煙楼」と称する座敷九畳を配し、その西を八畳、南を五畳、階段室をはさんで南西隅を四畳半とする。望煙楼の東面、北面には内縁を巡らし、その西端に突出して便所を設ける。望煙楼とは主屋が久保田にあった時期に宰平が名付けた室名で、別子銅山の煙を望むの意である。全体として簡素な意匠でまとめるが、北と東向きの縁手摺子に洋風意匠を用いる点が特徴である。 新座敷は桁行一一・九メートル、梁間七・九メートルの規模で、一五畳敷の新座敷の北側に一〇畳の次の間を配し、東南北の三方に縁を廻らす。北西には茶室を設け、南縁西端から廊下を介して湯殿を設ける。屋根は桟瓦葺で、湯殿、茶室部分と縁周りを銅板葺とする。棟札より明治二二年の建築、大工棟梁八木甚兵衛の手になることが知られる。座敷、次の間とも棹縁天井とし、座敷には二畳敷の上段風の床と琵琶床を備え、内法長押を廻して欄間、釘隠等に意匠を凝らす。 離れは、明治二二年に現在地に移築されたもので、桁行一九・七メートル、梁間三・九メートルの規模を持ち、主屋の北西側に土間を介して接続する。木造二階建、桟瓦葺で、二階部分を寄棟造、他を切妻造とする。一階は東端を便所とし、五畳、六畳、釜屋、風呂場、外便所を配し、南東隅には階段室を介して四畳半と便所を突出させる。二階は北向きの縁及び床を備える「指翠楼」八畳を中心に、その東に前室二室、西側には板間を配する。 金物蔵・米蔵は東西に長い一連の建物で、久保田の地にあったものを明治二〇年に移築したものである。金物蔵は部材等から江戸末期頃の建築と思われ、米蔵は「天保十年正月吉良日」の記のある祈祷札が残り、天保一〇年(一八三九)の建築である。主体部は土蔵造、外壁は腰部を板張、切妻造桟瓦葺とする。東西両端部は木造真壁造、寄棟造桟瓦葺とする。室内は西寄りから事務室二室及び玄関、一室の広い事務室とし、さらに東側は三室に区切って倉庫とし、西寄りの二室に二階床を張る。東端部分は現在では管理人居室として使われている。東端部は後補であり、室内も改造されている。また一部土蔵内部を仮設的に区切り、居室を設けている。また、西端部の内部も改造されている。 門番所は明治二三年頃の建築で、久保田時代の「御部屋」を移築したとの伝承があるが、詳細は不明である。木造平屋建、桟瓦葺、矩折平面で東端を切妻造、南端を寄棟造とる。内部は八畳座敷の東に四畳、その南に二室を設け、座敷の西側には便所を配する。門番所は西端付近に改造があるが、便所部分については当初もしくは早い段階からあったと考えられる。 乾蔵は明治二〇年に移築したもので、部材等から建築年代は江戸末期まで遡るものと思われる。土蔵造二階建、桁行一四・八メートル、梁間六・六メートルの規模で、切妻造本瓦葺である。内部は一・二階とも一室で、一階東南部のみ土間とする。 表門は明治二三年頃の建築であり、一間一戸薬医門、桟瓦葺で、北袖に潜戸を設けている。 旧広瀬家住宅は、明治二〇年代に移築・新築併せて全体が整備された近代和風建築で、敷地内の建築がほぼすべて残るのみならず、金物蔵・米蔵と門番所の一部を除いては後世の改造もほとんどなく、明治前期から中期にかけての大規模和風住宅の姿を今日に伝える事例として貴重である。主屋及び新座敷には巧緻な技巧による優れた意匠を備える他、眺望を意識した部屋を複数持つなど、住宅機能のみに留まらず迎賓館としての役割を兼ね備えた平面構成も特徴的であり、価値が高い。 【参考文献】 『別子銅山の近代化を見守った広瀬邸 ー旧広瀬邸建造物調査報告書ー』(旧広瀬邸文化財調査委員会編、新居浜市教育委員会、二〇〇二年)
関連情報
附指定
新土蔵・西座敷脇屋
裏門
人力車小屋
関連情報
附指定
附名称
:
新土蔵・西座敷脇屋
附員数
:
1棟
関連情報
附指定
附名称
:
裏門
附員数
:
1棟
関連情報
附指定
附名称
:
人力車小屋
附員数
:
1棟