国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(建造物)
各棟情報
名称
:
旧出津救助院
ふりがな
:
しつきゅうじょいん
棟名
:
授産場
棟名ふりがな
:
じゅさんじょう
旧出津救助院 授産場
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員数
:
1棟
種別
:
近代/その他
時代
:
明治
年代
:
明治16
西暦
:
1883
構造及び形式等
:
木造及び石造、建築面積273.63m2、二階建、北面及び東面下屋付、
寄棟造、桟瓦葺
創建及び沿革
:
棟礼、墨書、その他参考となるべき事項
:
指定番号
:
02442
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2003.12.25(平成15.12.25)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
重文指定基準1
:
(三)歴史的価値の高いもの
重文指定基準2
:
(五)流派的又は地方的特色において顕著なもの
所在都道府県
:
長崎県
所在地
:
長崎県長崎市西出津町
保管施設の名称
:
所有者名
:
長崎市、お告げのマリア修道会
所有者種別
:
管理団体・管理責任者名
:
旧出津救助院 授産場
解説文:
詳細解説
旧出津救助院は,長崎市中心より北西に約20kmの外海町南部にある。フランス人宣教師マルク・マリ・ド・ロ神父が,村民の窮状を救うため,私財を投じて建設した施設で,明治16年から18年にかけて建設された。
授産場は木造及び石造の2階建,マカロニ工場は煉瓦造の平屋建,鰯網工場は木骨煉瓦造の平屋建で,これらが急斜面に分散して建つ。
明治初期の授産,福祉施設という,他に例をみない貴重な遺構であるとともに,洋風の技術,納まりを随所に見せる折衷的な構法になり,ド・ロ壁のように地域に固有な技法を用いるなどの特徴をもち,我が国近代における西欧建築技術受容の一端を知るうえで重要である。
敷地内には石塀,石垣,石段が残り,建物とともに一体で保存を図る。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
添付ファイル
なし
写真一覧
旧出津救助院 授産場
旧出津救助院 全景
旧出津救助院 授産場
旧出津救助院 授産場 内部
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旧出津救助院 授産場
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旧出津救助院 全景
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旧出津救助院 授産場
写真一覧
旧出津救助院 授産場 内部
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解説文
旧出津救助院は,長崎市中心より北西に約20kmの外海町南部にある。フランス人宣教師マルク・マリ・ド・ロ神父が,村民の窮状を救うため,私財を投じて建設した施設で,明治16年から18年にかけて建設された。 授産場は木造及び石造の2階建,マカロニ工場は煉瓦造の平屋建,鰯網工場は木骨煉瓦造の平屋建で,これらが急斜面に分散して建つ。 明治初期の授産,福祉施設という,他に例をみない貴重な遺構であるとともに,洋風の技術,納まりを随所に見せる折衷的な構法になり,ド・ロ壁のように地域に固有な技法を用いるなどの特徴をもち,我が国近代における西欧建築技術受容の一端を知るうえで重要である。 敷地内には石塀,石垣,石段が残り,建物とともに一体で保存を図る。
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詳細解説
旧出津救助院 三棟 授産場、マカロニ工場、鰯網工場、宅地 旧出津救助院は、長崎市中心より北西に約二〇キロメートルの外海町南部に位置する。 外海地方は切支丹大名大村純忠以来多くの信徒が居住し、長崎切支丹信仰の中心地であった。弾圧以後も潜伏信徒として信仰を保ち続け近代を迎えたが、長い間の政治的、社会的迫害と差別により、また耕地も良港にも恵まれない辺境の地でもあり、人々の生活はきわめて厳しいものであった。 明治一二年、主任司祭として外海地区に赴任したフランス人宣教師マルク・マリ・ド・ロ(Marc Marie De Rotz)神父は、村民の窮状を救うため私財を投じて授産施設の設立を計画した。神父の設計、指導のもと建設されたのが現存する救助院で、ド・ロ神父を補佐して共に長く活動した中村近蔵が著したド・ロ神父の一代記によると、明治一六年頃の完成とされる。 ド・ロ神父は、一八四〇年三月二六日、北フランス、カルバドス県バイュ市近郊ヴォスロール村(Vaux-sur-l\'Aure)の貴族の家に生まれた。一八六五年叙階し、パリ外国宣教会に所属し、慶応四年(一八六八)長崎に派遣された。明治一二年、司牧の任を受けて外海に赴任、明治四四年、病気療養で長崎に移るまで外海地区で布教・教務を行うとともに、福祉活動、慈善事業に尽力し、大正三年一一月七日長崎市で没した。 救助院の各建物は、出津漁港を望む急な南斜面に分散して建つ。狭隘な敷地の西奥に授産場があり、その東方の道沿いにマカロニ工場を配し、この敷地の北、つづれ折りに登る小道を挟んだ一段高い位置に鰯網工場がある。 施設の中心である授産場は、木造及び石造、二階建で、屋根は和小屋による寄棟造、桟瓦葺とする。桁行約一九・四メートル、梁間約五・二メートルの二階建身舎の四周に幅約二・一メートルの庇を廻らした構成で、この外廻りは、四面各中央の出入口及び南面出入口両脇に窓を開く以外、「ド・ロ壁」と呼ばれる赤土を混ぜた漆喰を目地に用いた石積壁とする。この主体部の北面及び東面北寄りには下屋を葺き下ろす。 一階は仕切を設けず土間の広い一部屋とするが、北面石積壁を支持する短い控壁を屋内に張り出し、身舎・庇境に独立柱が並ぶ。北西隅にはパンなどの生地を発酵させるためのムロがあり、土間床の中央は東西に長く掘りこんで地下貯蔵庫とする。北面の下屋には物置、釜場、便所などを配し、東面北寄りの下屋はパン焼窯室とする。 東面出入口を入ってすぐの階段を昇った二階は、東端部に小部屋を仕切る以外は東西に長い一部屋で、北面は高い位置に窓を設け、その下は庇の小屋裏を利用し戸棚とする。南面には庇上に張り出して縁を設けるが、当初は北面と対称の構えであった。天井は小屋梁を見せその間に竿縁天井を張る。 マカロニ工場は、敷地際、道に沿って棟をほぼ東西に通して建つ。桁行一〇・一メートル、梁間三・九メートルの煉瓦造で、切妻造、桟瓦葺とする。内外とも漆喰塗りで、軒は大きく鉢巻き状に造る。内部は東西二部屋に仕切り、西の部屋の北壁に寄せて六口の竃を造り付ける。工場の東に続いて、桟瓦葺の小屋根をもつド・ロ壁による石積みの塀を築いて敷地を仕切る。 マカロニ工場の北西、道を少し登った右手に鰯網工場がある。授産場などよりやや遅れ明治一八年に竣工したと伝える。木骨煉瓦造で、屋根は小屋組をキングポスト・トラスとした寄棟造、桟瓦葺とし、桁行二三・八メートル、梁間五・六メートルの桁行に細長い主体部の西面に下屋を付け、南面は戸口前にド・ロ壁の擁壁を築き軒を葺き降ろして風除室とする。内部は間仕切を設けず、板床、竿縁天井で、床下には桁行に長く掘り込んだ地下貯蔵庫がある。 授産場や鰯網工場には輸入金具が多用され、架構法や継手・仕口、あるいは壁外で戸を引き分ける開口部の納まりなど、在来の構法と異なる西洋式の技術が用いられる。 旧出津救助院は、フランス人神父の指導により建設された明治初期の授産、福祉施設という、他に例をみない貴重な遺構である。洋風の技術、納まりを随所に見せる折衷的な構法になり、ド・ロ壁のように地域に固有な技法を用いるなどの特徴をもち、わが国近代における西欧建築技術受容の一端を知るうえで重要である。敷地内には煉瓦塀、石垣、石段が残り、建物とともに一体で保存を図る。 【参考文献】 『ある明治の福祉像ード・ロ神父の生涯』(片岡弥吉 日本放送出版協会一九七七年) 『長崎県建造物復元記録図報告書(洋館・教会堂)』(長崎県教育委員会 一九八八年) 『長崎県の近代化遺産ー長崎県近代化遺産総合調査報告書』(長崎県教育委員会 一九九 八年) 『長崎県指定史跡ド・ロ神父記念館(いわし網工場跡)保存修理工事報告書』(外海町 二 〇〇二年)