国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
厨子入/木造千手観音立像/木造四天王立像(戒壇院千手堂安置)
ふりがな
:
ずしいりもくぞうせんじゅかんのんりゅうぞうもくぞうしてんのうりゅうぞう
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員数
:
5躯
種別
:
彫刻
国
:
日本
時代
:
鎌倉
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
03523
枝番
:
0
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2005.06.09(平成17.06.09)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
奈良県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
東大寺
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
東大寺戒壇院【かいだんいん】千手堂は、正嘉元年(一二五七)から文永七年(一二七〇)まで造東大寺大勧進を務めた律僧円照(一二二一~七七)により大勧進職在任中に建立された。『春日社記録』中臣祐賢記には文永六年四月五日、後嵯峨上皇が同日の戒壇院での受戒に先立ち新造の千手堂に立ち寄ったことが記されており、およそこのころの創建と考えられる。以後今日に至る沿革が知られ、本一具はその本尊として伝来する厨子入の千手観音および四天王像である。
室町時代にはすでに秘仏であったことが知られ、平成十年五月の千手堂火災まで当初の彩色を鮮やかにとどめ、別製装身具や持物のほとんどが残るなど、稀に見る完好な状態で伝えられてきた。火災により各像は小欠失や折損、表面仕上げの一部の汚損や褪色が生じたが総じて損傷は少なく、その後の保存修理により外見はほぼ旧状に復した。一方、厨子はかなりの損傷を受け、修理にあたっては彩絵に大幅な剥落が生じた扉および後板【うしろいた】は新補したものと取り替えられた。
各像は檜材の寄木造になるが千手観音像のみ玉眼を嵌入する。千手観音像は頭体を別材製とするかとみられ、頭部は前後矧で、同じく前後矧(後半材は背板風)になる体部に差首する。表面は金泥塗で着衣には麻葉繋文、卍繋文、蓮唐草文などの切金文様を施す。X線線透過撮影写真によれば像内頸部に水晶(か)製の五輪塔、体部にも巻物状のもの複数本が納入されているのがうかがえる。四天王像はいずれも頭体別材製で、一材製になる頭部を体部(持国、多聞は前後二材製、増長は一材を前後割矧とし、広目は一材製)に差首し、着衣および甲には各種文様を彩色や切金で表す。
千手観音像は目鼻立ちの輪郭や衣文線など、各部を軽く鎬【しのぎ】を立てて明快に刻み出す彫り口に、鎌倉中期に活躍した仏師善円(のち善慶)やその周辺仏師に見られる特色が顕著にうかがえ、いわゆる善派系統の作家の手によって千手堂創建時に製作されたと認められる。足首以下を別に造り、躰部材より造り出した足〓をそれに貫通させる仕口も、延応二年(一二四〇)善円作の薬師寺地蔵菩薩立像(重文)など善派の作品に類例が見られる。
四天王像はいわゆる大仏殿様の像容になるが、光背に持国が日月、増長が北斗七星、多聞が比丘形像をそれぞれ付けるのは他に例がなく注目される。彫り口は千手観音と共通し、銅製装身具も同工であることから、一具として同時に造られたとみてよいであろう。賦彩はきわめて丁寧で、描法は繧繝【うんけん】が多用され、青系に赤系、緑系に紫系を対応させる奈良時代以来の伝統的な配色原理が各所で認められ、花葉により表す鬼面や剣先形の蓮弁などの文様や、白地に雲母を引く技法などに鎌倉時代の南都仏師による作例の特色を示している。
近年、善派仏師に関する研究は急速な進展を見ており、南都律僧の関与した造像に盛んに起用された様子が明らかにされているが、本群像はその製作事情の明らかな一例として貴重である。
これらを安置する厨子は大型の宝形造厨子で、取り外された旧扉には正面分に二十八部衆と風神雷神、向かって右側面分に倶利迦羅龍剣と不動明王、二童子、同じく左側面分に四明王が、旧後板には補陀洛浄土図が表される。補陀洛浄土図は山上の観音宝殿や下界の人物群、海中の諸動物などが細密画的に描き込まれ、絵画遺品としても注目されてきた。これらは損傷著しいとはいえなお往時の画趣をしのぶことが可能であるところから、本体の附【つけたり】に指定する。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
東大寺戒壇院【かいだんいん】千手堂は、正嘉元年(一二五七)から文永七年(一二七〇)まで造東大寺大勧進を務めた律僧円照(一二二一~七七)により大勧進職在任中に建立された。『春日社記録』中臣祐賢記には文永六年四月五日、後嵯峨上皇が同日の戒壇院での受戒に先立ち新造の千手堂に立ち寄ったことが記されており、およそこのころの創建と考えられる。以後今日に至る沿革が知られ、本一具はその本尊として伝来する厨子入の千手観音および四天王像である。 室町時代にはすでに秘仏であったことが知られ、平成十年五月の千手堂火災まで当初の彩色を鮮やかにとどめ、別製装身具や持物のほとんどが残るなど、稀に見る完好な状態で伝えられてきた。火災により各像は小欠失や折損、表面仕上げの一部の汚損や褪色が生じたが総じて損傷は少なく、その後の保存修理により外見はほぼ旧状に復した。一方、厨子はかなりの損傷を受け、修理にあたっては彩絵に大幅な剥落が生じた扉および後板【うしろいた】は新補したものと取り替えられた。 各像は檜材の寄木造になるが千手観音像のみ玉眼を嵌入する。千手観音像は頭体を別材製とするかとみられ、頭部は前後矧で、同じく前後矧(後半材は背板風)になる体部に差首する。表面は金泥塗で着衣には麻葉繋文、卍繋文、蓮唐草文などの切金文様を施す。X線線透過撮影写真によれば像内頸部に水晶(か)製の五輪塔、体部にも巻物状のもの複数本が納入されているのがうかがえる。四天王像はいずれも頭体別材製で、一材製になる頭部を体部(持国、多聞は前後二材製、増長は一材を前後割矧とし、広目は一材製)に差首し、着衣および甲には各種文様を彩色や切金で表す。 千手観音像は目鼻立ちの輪郭や衣文線など、各部を軽く鎬【しのぎ】を立てて明快に刻み出す彫り口に、鎌倉中期に活躍した仏師善円(のち善慶)やその周辺仏師に見られる特色が顕著にうかがえ、いわゆる善派系統の作家の手によって千手堂創建時に製作されたと認められる。足首以下を別に造り、躰部材より造り出した足〓をそれに貫通させる仕口も、延応二年(一二四〇)善円作の薬師寺地蔵菩薩立像(重文)など善派の作品に類例が見られる。 四天王像はいわゆる大仏殿様の像容になるが、光背に持国が日月、増長が北斗七星、多聞が比丘形像をそれぞれ付けるのは他に例がなく注目される。彫り口は千手観音と共通し、銅製装身具も同工であることから、一具として同時に造られたとみてよいであろう。賦彩はきわめて丁寧で、描法は繧繝【うんけん】が多用され、青系に赤系、緑系に紫系を対応させる奈良時代以来の伝統的な配色原理が各所で認められ、花葉により表す鬼面や剣先形の蓮弁などの文様や、白地に雲母を引く技法などに鎌倉時代の南都仏師による作例の特色を示している。 近年、善派仏師に関する研究は急速な進展を見ており、南都律僧の関与した造像に盛んに起用された様子が明らかにされているが、本群像はその製作事情の明らかな一例として貴重である。 これらを安置する厨子は大型の宝形造厨子で、取り外された旧扉には正面分に二十八部衆と風神雷神、向かって右側面分に倶利迦羅龍剣と不動明王、二童子、同じく左側面分に四明王が、旧後板には補陀洛浄土図が表される。補陀洛浄土図は山上の観音宝殿や下界の人物群、海中の諸動物などが細密画的に描き込まれ、絵画遺品としても注目されてきた。これらは損傷著しいとはいえなお往時の画趣をしのぶことが可能であるところから、本体の附【つけたり】に指定する。