国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
絹本著色十一面観音像
ふりがな
:
けんぽんちゃくしょくじゅういちめんかんのんぞう
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員数
:
1幅
種別
:
絵画
国
:
日本
時代
:
鎌倉
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
02017
枝番
:
0
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2005.06.09(平成17.06.09)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
奈良県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
東大寺
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
縦長の画面中央下寄りに向かって右から左へと移動する雲上の十一面観音一体をあらわす。観音は左足を少し踏み出す形で踏割蓮華座上に立つ。数珠を掛けた右手を垂下させ、左手は肘を曲げ、胸の前で蓮華茎を挿した水瓶を執る。乗雲の下には水波が広がり、画面の右上方には補陀落山【ふだらくせん】とみられる山水が描かれる。十一面観音は、除災招福の尊として、奈良時代以来その造像も盛んであったが、本図は、これを来迎する姿に描く点で注目される。
本図の図像は、唐・玄奘訳『十一面神呪心経【しんじゅしんきょう】』に基づく。また、頭上面を四段に高く重ねたさまは、『十一面観音諸像』所収の「東大寺印蔵像」に近いことが指摘されている。この印蔵像については『覚禅鈔【かくぜんしょう】』巻第四五に東大寺二月堂の観音悔過【けか】において第八日に印蔵像を迎えること、同像が「補陀洛(ママ)観音」と呼ばれていたことが記される。また奈良・能満院所蔵の絹本著色十一面観音像(平成十年六月三十日指定、重文)は、右手で錫杖を執る長谷寺式の十一面観音の姿を示し、磐石上に立つ点が本図とは異なるが、観音と補陀落山からなる画面構成、十一面観音の図像、着衣も含めた形態が近似することは、東大寺本と南都とのつながりを示唆する。あわせて、その面貌が国宝絹本著色十一面観音像(奈良国立博物館蔵、平成六年六月二十八日指定、国宝)や奈良・宝山寺所蔵絹本著色弥勒菩薩像(明治三十二年八月一日指定、重文)など南都所縁とされる平安時代後期から鎌倉時代の作例に通じることも注意されよう。
中世の南都においては、さらに春日社第四殿の本地仏としての十一面観音への信仰などがあり、本図様の成立状況にもさまざまな可能性が想定される。わが国において観音の来迎図様が描かれたことを示す、現在確認できる初出史料は、元仁二年(一二二五)、貞慶【じょうけい】(一一五五~一二一三)十三回忌追善の折の覚遍【かくへん】「一切経供養式并祖師上人十三年願文【いっさいきょうくようしきならびにそししょうにんじゅうさんねんがんもん】」とみられる。この史料からは、観音来迎図の濫觴【らんしょう】を貞慶周辺に求め得ることが予想されるが、これが南都の十一面観音信仰と結びついたところに、十一面観音来迎図の作例が残されたと想像される。
本図の画技は、截金や彩色文様にうかがえるようにきわめて細緻であり、特に着衣の金銀の泥による彩色は、平安時代末の京都・神光院所蔵絹本著色仏眼曼荼羅図(大正五年五月二十四日指定、重文)に通じるなど、平安時代後期の仏画の遺風を伝える。また、補陀落山の形状や建築、人物などは、平安時代の東大寺所蔵絹本著色華厳五十五所絵(昭和二十八年三月三十一日指定、重文)のうち観自在菩薩図のそれを摂取し、本図以降では絹本著色春日補陀落曼荼羅図(根津美術館蔵)や東大寺戒壇院千手堂厨子の補陀落山図等に類例を見出せる。本図は、中世南都において成立、展開した十一面観音来迎図の現存作例のうち、最も古い時代に属する遺例であり、わが国における十一面観音像の優品としても高く推賞される。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
縦長の画面中央下寄りに向かって右から左へと移動する雲上の十一面観音一体をあらわす。観音は左足を少し踏み出す形で踏割蓮華座上に立つ。数珠を掛けた右手を垂下させ、左手は肘を曲げ、胸の前で蓮華茎を挿した水瓶を執る。乗雲の下には水波が広がり、画面の右上方には補陀落山【ふだらくせん】とみられる山水が描かれる。十一面観音は、除災招福の尊として、奈良時代以来その造像も盛んであったが、本図は、これを来迎する姿に描く点で注目される。 本図の図像は、唐・玄奘訳『十一面神呪心経【しんじゅしんきょう】』に基づく。また、頭上面を四段に高く重ねたさまは、『十一面観音諸像』所収の「東大寺印蔵像」に近いことが指摘されている。この印蔵像については『覚禅鈔【かくぜんしょう】』巻第四五に東大寺二月堂の観音悔過【けか】において第八日に印蔵像を迎えること、同像が「補陀洛(ママ)観音」と呼ばれていたことが記される。また奈良・能満院所蔵の絹本著色十一面観音像(平成十年六月三十日指定、重文)は、右手で錫杖を執る長谷寺式の十一面観音の姿を示し、磐石上に立つ点が本図とは異なるが、観音と補陀落山からなる画面構成、十一面観音の図像、着衣も含めた形態が近似することは、東大寺本と南都とのつながりを示唆する。あわせて、その面貌が国宝絹本著色十一面観音像(奈良国立博物館蔵、平成六年六月二十八日指定、国宝)や奈良・宝山寺所蔵絹本著色弥勒菩薩像(明治三十二年八月一日指定、重文)など南都所縁とされる平安時代後期から鎌倉時代の作例に通じることも注意されよう。 中世の南都においては、さらに春日社第四殿の本地仏としての十一面観音への信仰などがあり、本図様の成立状況にもさまざまな可能性が想定される。わが国において観音の来迎図様が描かれたことを示す、現在確認できる初出史料は、元仁二年(一二二五)、貞慶【じょうけい】(一一五五~一二一三)十三回忌追善の折の覚遍【かくへん】「一切経供養式并祖師上人十三年願文【いっさいきょうくようしきならびにそししょうにんじゅうさんねんがんもん】」とみられる。この史料からは、観音来迎図の濫觴【らんしょう】を貞慶周辺に求め得ることが予想されるが、これが南都の十一面観音信仰と結びついたところに、十一面観音来迎図の作例が残されたと想像される。 本図の画技は、截金や彩色文様にうかがえるようにきわめて細緻であり、特に着衣の金銀の泥による彩色は、平安時代末の京都・神光院所蔵絹本著色仏眼曼荼羅図(大正五年五月二十四日指定、重文)に通じるなど、平安時代後期の仏画の遺風を伝える。また、補陀落山の形状や建築、人物などは、平安時代の東大寺所蔵絹本著色華厳五十五所絵(昭和二十八年三月三十一日指定、重文)のうち観自在菩薩図のそれを摂取し、本図以降では絹本著色春日補陀落曼荼羅図(根津美術館蔵)や東大寺戒壇院千手堂厨子の補陀落山図等に類例を見出せる。本図は、中世南都において成立、展開した十一面観音来迎図の現存作例のうち、最も古い時代に属する遺例であり、わが国における十一面観音像の優品としても高く推賞される。