国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
木造伽藍神像
ふりがな
:
もくぞうがらんじんぞう
解説表示▶
員数
:
5躯
種別
:
彫刻
国
:
時代
:
鎌倉
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
3567
枝番
:
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2010.06.29(平成22.06.29)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
神奈川県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
建長寺
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
禅宗寺院の伽藍を守護する中国の土地神の像5躯。建長5年(1253)建長寺創建時ないし永仁元年(1293)最初の火災の後の製作とみられる。単純化された眉目の形や、抑揚を控えた体躯の表現などに、南宋彫刻からのかなり直接的な影響が認められる。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
禅宗寺院の伽藍を守護する中国の土地神の像5躯。建長5年(1253)建長寺創建時ないし永仁元年(1293)最初の火災の後の製作とみられる。単純化された眉目の形や、抑揚を控えた体躯の表現などに、南宋彫刻からのかなり直接的な影響が認められる。
詳細解説▶
詳細解説
建長寺仏殿内北側の土地堂【つちどう】に祀られる五軀の伽藍神像である。伽藍神は道教的な性格をもつ中国の土着神が仏教に取り入れられたもので、わが国では中世宋文化の影響を受けた禅刹や北京律の寺院で伽藍を守護するために祀られるようになり、伽藍神を安置する堂は土地堂と称される。 建長寺は、建長元年(一二四九)、北条時頼(一二二七~六三)の発願によって創建、同五年に落慶した。開山は蘭渓道隆【らんけいどうりゅう】(一二一三~七八)である。永仁元年(一二九三)四月、大地震のためにほとんど全焼し、正安二年(一三〇〇)に再興供養された。その後正和四年(一三一五)七月、再び火災に見舞われ、翌年に再興、応永二十一年(一四一四)十二月にも講堂が罹災しているなどたびたび被災・再興を繰り返してきた。正保四年(一六四七)に徳川家光が増上寺の崇源院霊所より仏殿、唐門を移築したのが現在の姿である。 本像は倚像三軀と立像二軀からなり、その像容はいずれも冠を被り、道服を著し、沓を履く。各像は表情や手勢をそれぞれ異にし、冠、服、沓などの著衣表現もさまざまである。総じて頭部が大きく、頭躰とも厚みがあり、その一・三の目頭、目尻に切れ込みを入れた眼の形やその二の頬の長い顔立ち、抑揚のない体軀の表現には宋代彫刻のかなり直接的な影響がうかがわれる。 構造は、いずれも針葉樹材の寄木造で、玉眼を嵌入する(その四は現状木眼を入れ改造)。箱組式に細かく材を寄せるもの(その一)や、頭躰別材製でともに前後矧【はぎ】とするもの(その二)、頭躰幹部を通して前後矧とするもの(その三・四・五)など構造に多少のばらつきをみせ、作風にもやや違いがあるものの、表面仕上げ等からみて五軀は一具として同時ないし数十年のうちに製作されたとみてよいであろう。その製作年代は建長五年の建長寺創建期に遡らせる考え方もあろうが、その二の両足部を像底より刳り上げ、一方、軀幹部、両肩外側部は像底を彫り残す処理が一四世紀の作品によくみられる特徴であることからすれば、正安二年再興時における造像とも考えられる。 各像の個々の名称については『禅林象器箋【ぜんりんしょうきせん】』に「張大帝【ちょうだいてい】、大権修利【だいごんしゅり】、掌簿判官【しょうぼはんがん】、観應使者【かんのうししゃ】、招寶七郎【しょうほうしちろう】」とある。張大帝については同書に鼻が高く髯【ひげ】が長いと記述されるので、植毛痕のあるその三に比定でき、感応使者と掌簿判官は従神とみられるため立像がこれにあたろう。ほかの像については個々の特徴について明確な規定がなく、類例との比較においても名称を特定することは難しい。なお、蘭渓道隆が中国留学中、速やかに日本に戻るよう勧める異人に何度か出会い、それが張大帝であったことがわかると、蘭渓はもし自分が伽藍を建立するときは張大帝を土地神とすることを誓ったという伝承がある(『禅林象器箋』)。張大帝と蘭渓の関わりは深く、本像を一群の中心として尊像構成がなされたのであろう。 伽藍神に関しては、近年、鎌倉地方禅宋寺院以外に永平寺や東福寺などでも新たな作品の発見が相次ぎ、また尊格に関する研究の進展がみられる。本例は一具が揃ったものでは最も製作年代が古く、また中国風を濃厚にみせる作品として特に価値が高い。