国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
絹本著色洞窟の頼朝〈前田青邨筆/二曲屏風〉
ふりがな
:
けんぽんちゃくしょくどうくつのよりとも
解説表示▶
員数
:
一隻
種別
:
絵画
国
:
日本
時代
:
近代
年代
:
西暦
:
作者
:
前田青邨
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
2039
枝番
:
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2010.06.29(平成22.06.29)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
東京都
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
公益財団法人大倉文化財団
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
本図は、石橋山の合戦で平家方に敗北し、箱根山中の洞窟で再起を期する源頼朝主従七名を描いた作品で、昭和期を代表する歴史画の優品として広く知られた前田青邨の代表作である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
本図は、石橋山の合戦で平家方に敗北し、箱根山中の洞窟で再起を期する源頼朝主従七名を描いた作品で、昭和期を代表する歴史画の優品として広く知られた前田青邨の代表作である。
詳細解説▶
詳細解説
前田青邨(一八八五~一九七七)は、明治十八年、岐阜県中津川に生まれた。明治三十四年に上京、尾崎紅葉の紹介で梶田半古(一八七〇~一九一七)に入門する。同三十五年の第一二回日本絵画協会第七回日本美術連合絵画共進会に「金子家忠」を出品、師より青邨の号を授かる。同四十年、今村紫紅、安田靫彦等による紅児会への参加を契機に晩年の岡倉天心の謦咳に接した。大正三年(一九一四)の再興第一回日本美術展に「湯治場」(東京国立博物館)ほかを出品、同人に推挙された。同十一年から十二年にかけて小林古径とともに欧州留学し、その成果は「花売」(大正十三年、東京国立博物館)、「羅馬使節」(昭和二年、早稲田大学會津八一記念博物館)等に遺憾なく示された。 「洞窟の頼朝」は、これらに続き、昭和四年九月の再興第一六回日本美術院展に出品され好評を博したもので、翌年一月、本図により第一回朝日文化賞を受賞。同年、大倉家が主催しローマで行われた日本美術展覧会に出陳された。 本図は、治承四年(一一八〇)八月、石橋山の合戦で平家方の大庭景親に惨敗し、箱根外輪山中の洞窟に身を潜め、危うく虎口を脱した源頼朝主従を等身大の群像として描くものである。 本図の典拠は『吾妻鏡』『源平盛衰記』等に求められるが、青邨自身は、「十二神将が、薬師を守護している厳粛な感じを何かによって現したいと考えていた時、『東鑑(ママ)』にある石橋山の頼朝を思い出して、あの制作を思い立った」(前田青邨「歴史画描法」)とその画因のありかを語っている。洞窟の闇にきらめく色とりどりの武具を精確な線描と巧みな彩色技法で余すところなく表現した高度な画技、頼朝を中心とし、その視線によって光と闇が交錯する洞窟内の緊迫した空気を高めつつ、そこに再起を期する武者の気迫を巧みに込めた構成力によってこの課題は見事に達成されたといえよう。 そして、この画技と構成力を支えたものは、ほかならない青邨自身が、師の半古により古画、特に絵巻類の模写研究と人物古器物等の実物の綿密な写生とを厳しく薫陶されたことにある。すなわち、本図においても、遠くは「伴大納言絵詞」(出光美術館)、「平治物語絵巻」(東京国立博物館ほか)に、近くは、小堀鞆音筆「武士」(東京藝術大学)の先行作例に学び、また武具については、頼朝の大鎧が御嶽神社赤糸威鎧や厳島神社小桜韋黄返威鎧に、従者の太刀が丹生都比売神社銀銅蛭巻太刀拵に取材すること等、平安・鎌倉時代の遺例の綿密な写生に基づき制作していることが明らかである。さらには、欧州留学に際し実見した西洋絵画の歴史的主題による大構図作品群が、陰影深い等身大の群像表現の成立に寄与したことも推察される。 このように本図は、古典の文学性に大きく依拠する伝統的な武者絵のあり方から離れ、古典から想を得つつも、これを古画研究と写生に基づいて造形化することで古器物がもつ美を画面に再現し、これによって主題が有する時代の相貌を余すところなく表現するという、青邨が築き上げた近代的な歴史画のあり方を見事に示すものである。 青邨の画歴をたどると、本図の制作以降、ほぼ一〇年おきにくり返しこの画題に取り組んでいることがわかる。このことは洞窟の頼朝という主題を青邨が生涯にわたって追及していたことを示しており、その出発点でありかつ最大の作品である本図は、前田青邨の画業の前半を画するにとどまらず、青邨一代の代表作とすべきであろう。