国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
木造不動明王坐像
ふりがな
:
もくぞうふどうみょうおうざぞう
解説表示▶
員数
:
1躯
種別
:
彫刻
国
:
時代
:
鎌倉
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
3583
枝番
:
0
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2012.09.06(平成24.09.06)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
神奈川県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
明王院
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
鎌倉幕府四代将軍藤原頼経の発願により寛喜3年(1231)から嘉禎元年(1235)にかけ造られた鎌倉五大堂本尊、五大明王像の中尊にあたるとみられる。細かな髪の描写や、装飾的な衣文の処理等から、当代の代表的仏師の一人、肥後定慶の作とする説がある。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
鎌倉幕府四代将軍藤原頼経の発願により寛喜3年(1231)から嘉禎元年(1235)にかけ造られた鎌倉五大堂本尊、五大明王像の中尊にあたるとみられる。細かな髪の描写や、装飾的な衣文の処理等から、当代の代表的仏師の一人、肥後定慶の作とする説がある。
詳細解説▶
詳細解説
頭頂に七莎髻【しちしゃけい】を結い、左眼を眇【すが】めて右眼を見開き、牙上下出【げじょうげしゅつ】するいわゆる十九観様の不動明王像で、明王院本堂に祀られる。 明王院は、鎌倉幕府四代将軍藤原頼経【よりつね】が寛喜三年(一二三一)十月六日に発願、嘉禎元年(一二三五)六月二十九日に完成供養が行われた。五大明王像の造立は寛喜三年十一月十八日に始められ、供養当日に安置された。寛永年間(一六二四~四四)の火災で四明王が失われ、本尊のみ救出されたのが本像にあたる。 本像は頭躰幹部を檜とみられる針葉樹材を用いて前後左右四材より彫出、内刳【うちぐり】の上、三道下で割首【わりくび】し、両足部は主材一材の前方に一材を矧【は】ぐ構造になる。 頭躰の均衡がとれ、顔をやや俯【うつむ】け、懐を深く取る安定した構えに建暦二年(一二一二)運慶【うんけい】作の興福寺北円堂弥勒仏像に通じるものをみせる。枝分かれする単位を組み合わせ変化に富んだ構成を示す衣文【えもん】にも運慶風が濃厚である。さらに面部や背中などにみられる肉身の生々しい質感表現、賑やかで細やかな髪の描写や、著衣が各所で翻り瓔珞【ようらく】によるたぐれをつくるさまの装飾的な処理は貞応三年(一二二四)の大報恩寺六観音像のうち准胝【じゅんてい】観音、嘉禄二年(一二二六)の鞍馬寺観音菩薩像(ともに重要文化財)など運慶次世代の代表的仏師の一人、肥後定慶【ひごじょうけい】(一一八四~一二五六以後)の作品に顕著にみられる表現に近似している。 嘉禎元年七月十九日に行われた、頼経の正室である竹御所(一二〇二~三四)一周忌供養の本尊は同年五月二十七日に造り始められたが、担当仏師として『吾妻鏡』にみえる肥後法橋は肥後定慶に当たるとみられている。五大明王像安置がこの間に行われていることは注目され、作風に加え、ともに将軍頼経関連の造像であることから推定すれば本像の作者も定慶である可能性が高い。 運慶様式を堅実に継承し、それを基盤として独自の様式を確立した肥後定慶の作風は、東国における彫刻様式に大きな影響を与えた。製作年代の明確な定慶推定作品として、東国における慶派作例中運慶次世代の作風展開をうかがう上での重要作例といえる。