国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
南禅寺仏殿指図(三図)
ふりがな
:
なんぜんじぶつでんさしず(さんず)
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員数
:
1巻
種別
:
歴史資料
国
:
日本
時代
:
室町
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
00051
枝番
:
0
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
1989.06.12(平成1.06.12)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
京都府
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
南禅寺
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
南禅寺は、正応四年(一二九一)に亀山上皇がその離宮を寄進したのが始まりで、永仁元年(一二九三)には仏殿(金剛王宝殿)、永徳三年(一三八三)には新仏殿が建立された。しかし、明徳四年(一三九三)、文安四年(一四四七)、応仁元年(一四六七)に罹災している。
本巻は、現存しない仏殿に関する平面図三図を継いだもので、第一図(以下(一)とする)は内題、端裏書ともに「南禅寺本佛殿指圖」と墨書があり、第二図(以下(二))は「新南禅寺佛殿指圖」と内題があるが、「新」字のみは後筆になる。また、第三図(以下(三))にも「南禅寺佛殿指圖」と内題がある。三図とも柱を黒丸で表わし、各柱間【はしらま】と総間【そうま】の寸法、柱径【はしらけい】等を書き入れているが、(一)と(二)は同筆とみられる。縮尺は一〇〇分の一で、(一)は正確であるが、(二)と(三)はやや正確さを欠いている。(一)と(二)は柱筋をヘラ引きしているが、(三)はヘラ引きの痕がなく、柱の黒丸も粗雑である。また、料紙も(一)、(二)は同質の厚手の楮紙であるが、(三)はやや薄手の楮紙である。描かれた建物は、三図とも桁行【けたゆき】五間、梁間【はりま】五間、もこし(雨打)付きで西面し、側面前半部に北側は祖師堂、南側は土地【つち】堂が付属した形式であるが、柱間・柱径の寸法とも(一)が大きく、(二)(三)は同じである。総間の書き入れ寸法は、(一)が南北一四丈二尺、東西八丈六尺、(二)(三)が南北一一丈七尺、東西七丈二尺となっている。『天下南禅寺記』によれば、南禅寺に仏殿と新仏殿が存在したことが判明するが、土地堂、祖師堂は仏殿にのみ付設されていたとみられ、新仏殿はそれとは違う形式であったと考えられる。したがって、書風等よりみて(二)は文安焼失後に規模を縮小して計画された仏殿図、(一)はそれと比較するために併せて作成された焼失した仏殿図、(三)は安土桃山時代の(二)の写しと考えられる。
本図は、中世の南禅寺の伽藍の中心であった仏殿の唯一の指図で、中世の京五山の建物の規模を明らかにして価値が高い。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
南禅寺は、正応四年(一二九一)に亀山上皇がその離宮を寄進したのが始まりで、永仁元年(一二九三)には仏殿(金剛王宝殿)、永徳三年(一三八三)には新仏殿が建立された。しかし、明徳四年(一三九三)、文安四年(一四四七)、応仁元年(一四六七)に罹災している。 本巻は、現存しない仏殿に関する平面図三図を継いだもので、第一図(以下(一)とする)は内題、端裏書ともに「南禅寺本佛殿指圖」と墨書があり、第二図(以下(二))は「新南禅寺佛殿指圖」と内題があるが、「新」字のみは後筆になる。また、第三図(以下(三))にも「南禅寺佛殿指圖」と内題がある。三図とも柱を黒丸で表わし、各柱間【はしらま】と総間【そうま】の寸法、柱径【はしらけい】等を書き入れているが、(一)と(二)は同筆とみられる。縮尺は一〇〇分の一で、(一)は正確であるが、(二)と(三)はやや正確さを欠いている。(一)と(二)は柱筋をヘラ引きしているが、(三)はヘラ引きの痕がなく、柱の黒丸も粗雑である。また、料紙も(一)、(二)は同質の厚手の楮紙であるが、(三)はやや薄手の楮紙である。描かれた建物は、三図とも桁行【けたゆき】五間、梁間【はりま】五間、もこし(雨打)付きで西面し、側面前半部に北側は祖師堂、南側は土地【つち】堂が付属した形式であるが、柱間・柱径の寸法とも(一)が大きく、(二)(三)は同じである。総間の書き入れ寸法は、(一)が南北一四丈二尺、東西八丈六尺、(二)(三)が南北一一丈七尺、東西七丈二尺となっている。『天下南禅寺記』によれば、南禅寺に仏殿と新仏殿が存在したことが判明するが、土地堂、祖師堂は仏殿にのみ付設されていたとみられ、新仏殿はそれとは違う形式であったと考えられる。したがって、書風等よりみて(二)は文安焼失後に規模を縮小して計画された仏殿図、(一)はそれと比較するために併せて作成された焼失した仏殿図、(三)は安土桃山時代の(二)の写しと考えられる。 本図は、中世の南禅寺の伽藍の中心であった仏殿の唯一の指図で、中世の京五山の建物の規模を明らかにして価値が高い。