国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
絹本著色不動明王二童子像
ふりがな
:
けんぽんちゃくしょくふどうみょうおうにどうじぞう
解説表示▶
員数
:
1幅
種別
:
絵画
国
:
日本
時代
:
鎌倉
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
01963
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
1998.06.30(平成10.06.30)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
滋賀県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
明王院
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
幅約四八・五センチメートルの絹を三副継ぎ合わせた大幅の画面に、不動明王とその両脇に二童子を描き表した堂々たる作品である。油煙等の薫染により画面は黒く汚れ、上方火焔部に若干の欠失があるものの画絹はほぼ健全で、補筆も認められず、図柄はほとんど欠けるところがない。彩色や文様は平安時代的な雅さをよく残しているが、暢達した描線はむしろ鎌倉時代的な平明さをもっており、制作時期は平安時代の余風冷めやらぬ鎌倉時代前期と推考される。
不動明王は瑟々座に坐し、右手に三鈷剣を執り、左手に索を握る。肉身は墨線で象形した上に群青彩とし、描起こしの線は認められない。像容は十九観に基づく、いわゆる玄朝様である。髪は速度のある細線で髪筋を描き、濃褐色を呈する色を暈かし塗る。頭上に沙髻を結い、左肩前に結髪を垂らす。頭上正面に蓮華を載せる。左目を眇め、右牙で上唇を、左牙で下唇をそれぞれ噛む。瓔珞や色帯で飾られた胸飾・腕釧などにより華やかに荘厳されているが、ことに条帛・腰衣・裳は種々の彩色文が施されている。とくに、条帛における雲鶴文は珍しく注目される。瑟々座は群青と朱、緑青と紫(現状は茶色)の組み合わせという、平安時代の好尚を引き継いでいる。一方で、明王を包む火焔には朱・丹のほかに銀泥を用いるなど新しい試みも行っている。
明王の右に制〓迦童子、左に矜羯羅童子を表している。制〓迦童子は右手に握った金剛棒を地に突き立て、右腕の上に肘をついた左手の上に顎を載せる。身色は朱色で、やや眦の釣り上がった相だが、怪異というわけではない。髪は顔面の周囲のみ巻毛を表す。両肩を白緑の布で覆い、腰衣と裳を着ける。それぞれに彩色の華文を表す。矜羯羅童子はやや前屈みに合掌して立つ。肉色身は頬等に朱暈を入れる。髪を中分けにし、やや太りじしのあどけない風貌である。それぞれに彩色華文をもつ条帛と腰衣・裳を着ける。
不動明王画像の遺品は、五大尊の中幅をも含めると平安時代以降少なくないが、制作の優秀であること、画面規模の点などを勘案すると、本図は十指に入る優品といえるであろう。とくに、不動二童子という三尊形式による単独画像のうち、明王が瑟々座に坐す遺例としては最も古いものの一つである。
不動明王に対する信仰は日本仏教史上に大きな比重を占めているが、とくに天台宗の果たした役割は大きい。初期の不動信仰者としては、真言宗祖空海はおくとして、天台宗では寺門派の祖となった智証大師円珍と、天台宗山門派の相応和尚とが重要である。このうち、相応は円珍の先輩である円仁の弟子で、比叡山修験の祖として著名である。今日でも行われている千日回峰行を始めたほか、葛川明王院における参籠行の創始者として崇められている。
本図の伝来について明証はないものの、天台修験の中心道場に現存する不動明王画像の大作として意味深いものといえよう。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
幅約四八・五センチメートルの絹を三副継ぎ合わせた大幅の画面に、不動明王とその両脇に二童子を描き表した堂々たる作品である。油煙等の薫染により画面は黒く汚れ、上方火焔部に若干の欠失があるものの画絹はほぼ健全で、補筆も認められず、図柄はほとんど欠けるところがない。彩色や文様は平安時代的な雅さをよく残しているが、暢達した描線はむしろ鎌倉時代的な平明さをもっており、制作時期は平安時代の余風冷めやらぬ鎌倉時代前期と推考される。 不動明王は瑟々座に坐し、右手に三鈷剣を執り、左手に索を握る。肉身は墨線で象形した上に群青彩とし、描起こしの線は認められない。像容は十九観に基づく、いわゆる玄朝様である。髪は速度のある細線で髪筋を描き、濃褐色を呈する色を暈かし塗る。頭上に沙髻を結い、左肩前に結髪を垂らす。頭上正面に蓮華を載せる。左目を眇め、右牙で上唇を、左牙で下唇をそれぞれ噛む。瓔珞や色帯で飾られた胸飾・腕釧などにより華やかに荘厳されているが、ことに条帛・腰衣・裳は種々の彩色文が施されている。とくに、条帛における雲鶴文は珍しく注目される。瑟々座は群青と朱、緑青と紫(現状は茶色)の組み合わせという、平安時代の好尚を引き継いでいる。一方で、明王を包む火焔には朱・丹のほかに銀泥を用いるなど新しい試みも行っている。 明王の右に制〓迦童子、左に矜羯羅童子を表している。制〓迦童子は右手に握った金剛棒を地に突き立て、右腕の上に肘をついた左手の上に顎を載せる。身色は朱色で、やや眦の釣り上がった相だが、怪異というわけではない。髪は顔面の周囲のみ巻毛を表す。両肩を白緑の布で覆い、腰衣と裳を着ける。それぞれに彩色の華文を表す。矜羯羅童子はやや前屈みに合掌して立つ。肉色身は頬等に朱暈を入れる。髪を中分けにし、やや太りじしのあどけない風貌である。それぞれに彩色華文をもつ条帛と腰衣・裳を着ける。 不動明王画像の遺品は、五大尊の中幅をも含めると平安時代以降少なくないが、制作の優秀であること、画面規模の点などを勘案すると、本図は十指に入る優品といえるであろう。とくに、不動二童子という三尊形式による単独画像のうち、明王が瑟々座に坐す遺例としては最も古いものの一つである。 不動明王に対する信仰は日本仏教史上に大きな比重を占めているが、とくに天台宗の果たした役割は大きい。初期の不動信仰者としては、真言宗祖空海はおくとして、天台宗では寺門派の祖となった智証大師円珍と、天台宗山門派の相応和尚とが重要である。このうち、相応は円珍の先輩である円仁の弟子で、比叡山修験の祖として著名である。今日でも行われている千日回峰行を始めたほか、葛川明王院における参籠行の創始者として崇められている。 本図の伝来について明証はないものの、天台修験の中心道場に現存する不動明王画像の大作として意味深いものといえよう。