国指定文化財等
データベース
・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
絹本著色吉野曼荼羅図
ふりがな
:
けんぽんちゃくしょくよしのまんだらず
解説表示▶
員数
:
1幅
種別
:
絵画
国
:
日本
時代
:
鎌倉
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
01987
枝番
:
0
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2001.06.22(平成13.06.22)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
奈良県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
西大寺
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
吉野曼荼羅は、日本最古の山岳霊場であり修験道の根本道場としても名高い吉野山の神々を描く垂迹画で、金峯山修験道の興隆を背景に中近世を通じて描き継がれ、十数点の作品が現存する。その中で、奈良・西大寺に伝わる本図は、古様で優れた作風で知られる。
画面は、中央に主尊の蔵王権現を大きく描き、その周囲に役行者や吉野山ゆかりの神々を規則的に配置する。截金線で区切った上方の区画には、山容描写の中に大峯八大童子、安禅寺多宝塔などを描く。
蔵王権現は左足で磐石を踏み、右手、右膝を高く掲げる通例の像容であるが、その姿は均整がとれて躍動感に富んでいる。蔵王権現の向かって右下には、これと対峙する位置に役行者を配し、吉野山中における蔵王権現感得の場面を表す。最上段右側の金精明神は、吉野山高所に鎮座する金峯神社の祭神で、同山の地主神として仰がれる。また第三段目に向かい合って配される子守明神と勝手明神は、共に古来大和の水分神として信仰され、蔵王権現の脇侍的存在としても広く各地に勧請された二神である。本図はこのように諸尊像を、社格や地理関係をある程度考慮しながら画面に配置している。また現在はかなり剥落しているが、諸尊像の背景には、緑青の地色の上から一面に截金の地文様を施しており、当初はより荘厳な画趣であったと推察される。
その作風は、神々の作り絵風の装束描写や着衣の細かい文様表現等に、手堅い伝統技術が看取される。また、神々の年齢や性格を、その顔貌表現で巧みに描き分ける描写力は優れており、これに類似する例が、元亨年間(一三二一-一三二四)ころに南都で多作された聖徳太子絵伝(四天王寺本や上宮寺本など)や、鎌倉時代末期の作と考えられる神於寺縁起絵巻などに見出される。こうした点から本図の制作時期は、鎌倉時代一四世紀と考えられる。
画面上方の区画には、安禅寺の多宝塔を含む吉野奥院の景観が描かれている。安禅寺は、金峯山で最も早く蔵王権現を祀った修験道寺院で、後世その一帯は吉野奥院と称された。元弘二年(一三三二)十一月には、後醍醐天皇の第三皇子である護良親王がこの安禅寺多宝塔一帯を吉野城の本陣とし、翌年二月に同寺蔵王堂において幕府側二階堂軍との戦闘が行われている。この吉野奥院の景観を描く西大寺本は、画中に調伏用の赤色の修法壇を描く点からも、護良親王の討幕活動に関連して、幕府調伏祈祷の本尊として制作された可能性が推測される。さらに護良親王は、西大寺流の真言律僧の援助のもとに討幕活動を進めており、西大寺本もこうした状況の中で、護良周辺の律僧らの関与のもとに発願されたものと考えられる。鎌倉時代末期の政治的状況を反映しつつ、当時の堅実な画風を伝える垂迹画の優品として貴重である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
吉野曼荼羅は、日本最古の山岳霊場であり修験道の根本道場としても名高い吉野山の神々を描く垂迹画で、金峯山修験道の興隆を背景に中近世を通じて描き継がれ、十数点の作品が現存する。その中で、奈良・西大寺に伝わる本図は、古様で優れた作風で知られる。 画面は、中央に主尊の蔵王権現を大きく描き、その周囲に役行者や吉野山ゆかりの神々を規則的に配置する。截金線で区切った上方の区画には、山容描写の中に大峯八大童子、安禅寺多宝塔などを描く。 蔵王権現は左足で磐石を踏み、右手、右膝を高く掲げる通例の像容であるが、その姿は均整がとれて躍動感に富んでいる。蔵王権現の向かって右下には、これと対峙する位置に役行者を配し、吉野山中における蔵王権現感得の場面を表す。最上段右側の金精明神は、吉野山高所に鎮座する金峯神社の祭神で、同山の地主神として仰がれる。また第三段目に向かい合って配される子守明神と勝手明神は、共に古来大和の水分神として信仰され、蔵王権現の脇侍的存在としても広く各地に勧請された二神である。本図はこのように諸尊像を、社格や地理関係をある程度考慮しながら画面に配置している。また現在はかなり剥落しているが、諸尊像の背景には、緑青の地色の上から一面に截金の地文様を施しており、当初はより荘厳な画趣であったと推察される。 その作風は、神々の作り絵風の装束描写や着衣の細かい文様表現等に、手堅い伝統技術が看取される。また、神々の年齢や性格を、その顔貌表現で巧みに描き分ける描写力は優れており、これに類似する例が、元亨年間(一三二一-一三二四)ころに南都で多作された聖徳太子絵伝(四天王寺本や上宮寺本など)や、鎌倉時代末期の作と考えられる神於寺縁起絵巻などに見出される。こうした点から本図の制作時期は、鎌倉時代一四世紀と考えられる。 画面上方の区画には、安禅寺の多宝塔を含む吉野奥院の景観が描かれている。安禅寺は、金峯山で最も早く蔵王権現を祀った修験道寺院で、後世その一帯は吉野奥院と称された。元弘二年(一三三二)十一月には、後醍醐天皇の第三皇子である護良親王がこの安禅寺多宝塔一帯を吉野城の本陣とし、翌年二月に同寺蔵王堂において幕府側二階堂軍との戦闘が行われている。この吉野奥院の景観を描く西大寺本は、画中に調伏用の赤色の修法壇を描く点からも、護良親王の討幕活動に関連して、幕府調伏祈祷の本尊として制作された可能性が推測される。さらに護良親王は、西大寺流の真言律僧の援助のもとに討幕活動を進めており、西大寺本もこうした状況の中で、護良周辺の律僧らの関与のもとに発願されたものと考えられる。鎌倉時代末期の政治的状況を反映しつつ、当時の堅実な画風を伝える垂迹画の優品として貴重である。