国宝・重要文化財(美術工芸品)
 主情報
名称 東慶寺文書
ふりがな とうけいじもんじょ
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員数 777通、20冊
種別 古文書
日本
時代 南北朝~明治
年代
西暦
作者
寸法・重量
品質・形状
ト書
画賛・奥書・銘文等
伝来・その他参考となるべき事項
指定番号(登録番号) 00180
枝番 00
国宝・重文区分 重要文化財
重文指定年月日 2001.06.22(平成13.06.22)
国宝指定年月日
追加年月日
所在都道府県 神奈川県
所在地
保管施設の名称
所有者名 東慶寺
管理団体・管理責任者名

解説文:
 東慶寺は、執権北条時宗夫人の覚山尼が開創した臨済宗の尼寺である。近世初頭に豊臣秀頼の娘天秀尼が入寺し、徳川家康に「開山以来」の縁切寺法の維持を願って許されたと伝えられている。縁切寺【えんきりでら】あるいは駈込寺【かけこみでら】と俗称されている。離縁の請求権は『公事方御定書』で夫にしか与えられていなかったので、駈込は離縁請求権を持ち得なかった女性の合法的な手段であった。東慶寺のほかに、群馬県の満徳寺も縁切寺として知られている。
 本文書は、永徳三年(一三八三)十二月廿日附足利氏満寄進状を初見とし、明治三年(一八七〇)十二月廿九日附たよ内済離縁引取状【ないさいりえんひきとりじょう】を最後とする。そのうち、江戸時代の文書は縁切り関係文書がほとんどで、元文三年(一七三八)三月廿七日附ゆつ寺法離縁状【じほうりえんじょう】(写真)を初見としている。明治の世になっても縁切寺法の存続許可を願い出るものの、明治政府に却下され、明治四年に東慶寺の駈込寺としての社会的機能は終焉する。女性からの離婚の請求は、明治六年五月十五日付の太政官第一六二号布告によって、裁判所に訴えることになった。
 本文書の内容は、寺史・寺法関係と縁切関係とに大別される。寺史関係では、小田原後北条氏(氏綱・氏康・氏政・氏直)、豊臣秀吉による寺領安堵(野場郷・前岡郷)、徳川家康による寄進に関する発給文書が残されている。また寺法関係では、寺法の確立とその経緯について記した『旧記之抜書』『東慶寺寺例書』などがある。具体的な寺法の執行や寺役人については、『東慶寺一件諸書物写』『松岡山記録』に記述されている。
 縁切関係では、縁切手続きの書式集である『御寺法』が残っている。塔頭の一つである蔭凉軒本と寺役人の石井本とがある。この『御寺法』に記載された書式をみてみると、縁切関係文書に呼出状、出役達書、寺法書、山下願、寺法離縁状、内済離縁状などの一七種の各書式のあったことが知られる。
 東慶寺における離縁には、寺法離縁と内済離縁とがある。寺法離縁とは、入寺三年(二四か月)で強制的に夫方から離縁状を差し出させるものである。内済離縁とは、入寺せずに離縁を成立させることである。離縁状の内容は、いずれも離縁する旨と再婚を許可する旨とからなっている。寺法離縁状は夫のほかに家主・五人組等が連署加判し、名主の奥書を加え、「松ケ岡御所様御役所」宛になっている。内済離縁状は文言を三行半に書く書式から、一般に「三くだり半」といわれるもので、夫から妻宛で、本紙は妻に渡し、東慶寺ではその写しを取り置いている。
 駈込み件数は、残っている文書によれば、約二六〇件で文化・文政年間以降継続的にみられるが、幕末の嘉永年間から急増している。駈込み女性の出身地の多くは、江戸・相模・武蔵であるが、安房・上総などにも及んでいる。
 東慶寺文書は駈込みの様子、寺法の取り扱い、駈込み女性の救済などを明らかにできる社会史・法制史・女性史の稀有な史料である。
関連情報
    (情報の有無)
  附指定
  一つ書 なし
  添付ファイル なし