国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
絹本著色白山三社神像
ふりがな
:
けんぽんちゃくしょくはくさんさんしゃしんぞう
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員数
:
1幅
種別
:
絵画
国
:
日本
時代
:
鎌倉
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
01998
枝番
:
00
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2003.05.29(平成15.05.29)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
石川県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
白山比咩神社
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
詳細解説
本図は三神を描き、中央女神の上に十一面観音、向かって右男神の上に大日如来、左の女神の上に千手観音の種子によりその本地仏を表すもので、現存する白山関係の絵画としては最も古い作例と考えられ、その画風からみて、制作期は鎌倉時代末期に遡るものと考えられる。白山は奈良時代に泰澄によって開かれたと伝えられ、中世において加賀、越前、美濃を拠点として盛んな信仰活動が展開されたことが知られるが、本格的な絵画遺品に関しては現在、本図を除いて室町時代後期を遡るものはほとんど残っていない。そのなかにあって本図は、類例のないその構成の独自性も含めて、きわめて貴重な遺例である。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
本図は三神を描き、中央女神の上に十一面観音、向かって右男神の上に大日如来、左の女神の上に千手観音の種子によりその本地仏を表すもので、現存する白山関係の絵画としては最も古い作例と考えられ、その画風からみて、制作期は鎌倉時代末期に遡るものと考えられる。白山は奈良時代に泰澄によって開かれたと伝えられ、中世において加賀、越前、美濃を拠点として盛んな信仰活動が展開されたことが知られるが、本格的な絵画遺品に関しては現在、本図を除いて室町時代後期を遡るものはほとんど残っていない。そのなかにあって本図は、類例のないその構成の独自性も含めて、きわめて貴重な遺例である。
詳細解説▶
詳細解説
本図は三神を描き、中央女神の上に十一面観音、向かって右男神の上に大日如来、左の女神の上に千手観音の種子によりその本地仏を表すもので、現存する白山関係の絵画としては最も古い作例と考えられる。白山周辺を中心に残るいわゆる白山曼荼羅図の多くが、白山および白山七社を中心とする諸社の垂迹神や本地仏、泰澄および二行者らを描いたものであるのに対し、本図はその構成上も他に類例のないものである。 本図の三神がいずれの祭神を描いたものであるかを直接に明らかにする史料は知られていないが、『白山之記』に記される、白山七社の祭神の形態と本地仏の記述から、本図の三神は、中央女神が白山本宮、向かって右の男神が金釼宮、左の女神が三宮の祭神を描いたものと考えられる。金釼宮の本地仏は『白山之記』においては大日如来ではなく倶利伽羅明王であるが、白山比咩神社文書中の「白山七社御出現次第」においては、「金釼宮 本地不動」となっており、大日如来と不動明王、倶利伽羅明王との深い関係から必ずしも大きく矛盾するものではない。 白山七社のうち、この三社の祭神のみから本図が構成される理由は明らかではなく、この三社の特別な関係を明らかに示す史料も今のところない。しかし『白山之記』に記されるように、この三社が少なくとも加賀馬場系では七社の序列の最初の三社であり、また金釼宮、三宮が白山六所王子の第一と第二であること(「白山七社御出現次第」)、この三社が地理的にも最も近い関係にあることなどから何らかの関係をもっていた可能性が推測される。白山比咩神社蔵十一面観音像摺仏の文明五年(一四七三)の施入銘には「奉施入」の字のあとに、梵字で、十一面観音、その右下に不動明王、左下に千手観音が表されること、また白山比咩神社文書中の応永三十四年(一四二七)の文書に、三所権現の前で十一面、不動、千手の呪をそれぞれ一千遍誦えたことなどが記されていることなど、本宮をはじめとするこの三社を中心とした信仰形態があった可能性を強く示唆していよう。このように、活発な信仰活動が行われながら、遺品、史料の乏しい中世の白山信仰を考えるうえでも、本図は貴重な手がかりとなると考えられる。絵は安定した描線と丁寧な彩色によって描かれ、数多く見られる文様描写は緻密であり、金泥の使い方もきわめて抑制的で繊細である。その画風からみて、制作期は鎌倉時代末期に遡るものと考えられよう。 白山は奈良時代に泰澄によって開かれたと伝えられ、中世において加賀、越前、美濃を拠点として盛んな信仰活動が展開されたことが知られるが、本格的な絵画遺品に関しては現在、本図を除いて室町時代後期を遡るものはほとんど残っていない。そのなかにあって本図は、類例のないその構成の独自性も含めて、きわめて貴重な遺例である。