国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
北浦定政関係資料
ふりがな
:
きたうらさだまさかんけいしりょう
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員数
:
1095点
種別
:
歴史資料
国
:
日本
時代
:
江戸
年代
:
西暦
:
作者
:
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
00120
枝番
:
0
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
2003.05.29(平成15.05.29)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
奈良県
所在地
:
奈良文化財研究所 奈良県奈良市二条町2-9-1
保管施設の名称
:
奈良文化財研究所
所有者名
:
独立行政法人国立文化財機構
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
北浦定政(一八一七~七一)は、大和国古市村【やまとのくにふるいちむら】(現在の奈良市古市町)で津藩の金融業務を務める家に生まれた。通称は儀助【ぎすけ】、霊亀亭【れいきてい】と号した。和歌や国学を冨田泰州【たいしゅう】・本居内遠【もとおりうちとう】に、漢学を津藩の儒者斎藤拙堂【せつどう】に学んだ。山陵の比定や平城京の条坊、大和国の条里復原に関心をもち、津藩御用の傍ら、古寺の所蔵する文献を書写したり、大和盆地内を踏査して地名や地形を調査し、考証を深めた。山陵の比定の成果は、嘉永元年(一八四八)に『打墨縄【うちすみなわ】』として刊行され、平城京条坊や大和国条里については、嘉永五年にそれぞれ「平城宮大内裏跡坪割之図【だいだいりあとつぼわりのず】」「大和国古班田【こはんでん】坪割略図」(以上二点は北浦家所蔵)にまとめられた。
文久二年(一八六二)には、それまでの山陵に関する考証が認められ、御陵【ごりょう】取調御用掛として津藩士に取り立てられた。神武天皇陵の比定や光仁天皇陵の整備等、尊王思想の高揚に基づくいわゆる文久の修陵事業の一翼を担ったが、明治四年(一八七一)、五五歳で病没した。
本資料は、定政没後北浦家に伝来し、平成四年に同家から奈良国立文化財研究所(当時)に寄贈されたもので、以下三つに大別される。
(一)著述・資料類は、『打墨縄』「夙村考【しゅくむらこう】」等定政の著述のほか、平城京・大和国条里復原の作成過程を示す図の草稿類、史書からの抜書、条里の記述がみえる大和諸寺の資財帳や「大和国添下【そえしも】郡京北【けいほく】班田図」等の写本が含まれる。また、大和国内の踏査・測量の野帳【のちょう】である「松【まつ】のおち葉【ば】」は調査の過程を詳細に示す。総じて、定政の、史料と現地調査に基づく実証的な研究手法をうかがうことができる。
(二)文書・記録類は、定政の、履歴や文久三年の陵墓整備に関する記録等および職務上、学問上の交流を示す書状類からなる。特に陵墓整備に関しては山陵の考証に携わった谷森善臣【たにもりよしおみ】他各方面から寄せられた書状が多く含まれており、同事業の根本史料である。
(三)詠草類は、定政自作およびその知己から得た短冊・色紙等である。作者は広範にわたり、書状とともに定政の広い交友関係を示す。
その後明治三十八年、関野貞【ただし】(一八六七~一九三五)が『平城京及大内裏考』で定政の研究を紹介しながら、平城京域の比定を行ったのに対して、喜田貞吉【さだきち】(一八七一~一九三九)がやはり定政の成果をもとに反論を加えたことから、都城制・条里制研究の先覚者として、その業績が学界に広く知られるようになった。また、奈良の棚田嘉十郎【かじゅうろう】は平城宮跡の荒廃を嘆き、定政の考証の成果をもとに宮跡の保存を訴えた。その行動は後の宮跡保存の原点となっている。
定政の業績は、今日の都城や条里制に関する歴史学・地理学・考古学的研究の基礎をなすものである。本資料はその学問的方法と成果を詳細に物語り、今日に至っても学術的価値は高い。
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
添付ファイル
なし
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解説文
北浦定政(一八一七~七一)は、大和国古市村【やまとのくにふるいちむら】(現在の奈良市古市町)で津藩の金融業務を務める家に生まれた。通称は儀助【ぎすけ】、霊亀亭【れいきてい】と号した。和歌や国学を冨田泰州【たいしゅう】・本居内遠【もとおりうちとう】に、漢学を津藩の儒者斎藤拙堂【せつどう】に学んだ。山陵の比定や平城京の条坊、大和国の条里復原に関心をもち、津藩御用の傍ら、古寺の所蔵する文献を書写したり、大和盆地内を踏査して地名や地形を調査し、考証を深めた。山陵の比定の成果は、嘉永元年(一八四八)に『打墨縄【うちすみなわ】』として刊行され、平城京条坊や大和国条里については、嘉永五年にそれぞれ「平城宮大内裏跡坪割之図【だいだいりあとつぼわりのず】」「大和国古班田【こはんでん】坪割略図」(以上二点は北浦家所蔵)にまとめられた。 文久二年(一八六二)には、それまでの山陵に関する考証が認められ、御陵【ごりょう】取調御用掛として津藩士に取り立てられた。神武天皇陵の比定や光仁天皇陵の整備等、尊王思想の高揚に基づくいわゆる文久の修陵事業の一翼を担ったが、明治四年(一八七一)、五五歳で病没した。 本資料は、定政没後北浦家に伝来し、平成四年に同家から奈良国立文化財研究所(当時)に寄贈されたもので、以下三つに大別される。 (一)著述・資料類は、『打墨縄』「夙村考【しゅくむらこう】」等定政の著述のほか、平城京・大和国条里復原の作成過程を示す図の草稿類、史書からの抜書、条里の記述がみえる大和諸寺の資財帳や「大和国添下【そえしも】郡京北【けいほく】班田図」等の写本が含まれる。また、大和国内の踏査・測量の野帳【のちょう】である「松【まつ】のおち葉【ば】」は調査の過程を詳細に示す。総じて、定政の、史料と現地調査に基づく実証的な研究手法をうかがうことができる。 (二)文書・記録類は、定政の、履歴や文久三年の陵墓整備に関する記録等および職務上、学問上の交流を示す書状類からなる。特に陵墓整備に関しては山陵の考証に携わった谷森善臣【たにもりよしおみ】他各方面から寄せられた書状が多く含まれており、同事業の根本史料である。 (三)詠草類は、定政自作およびその知己から得た短冊・色紙等である。作者は広範にわたり、書状とともに定政の広い交友関係を示す。 その後明治三十八年、関野貞【ただし】(一八六七~一九三五)が『平城京及大内裏考』で定政の研究を紹介しながら、平城京域の比定を行ったのに対して、喜田貞吉【さだきち】(一八七一~一九三九)がやはり定政の成果をもとに反論を加えたことから、都城制・条里制研究の先覚者として、その業績が学界に広く知られるようになった。また、奈良の棚田嘉十郎【かじゅうろう】は平城宮跡の荒廃を嘆き、定政の考証の成果をもとに宮跡の保存を訴えた。その行動は後の宮跡保存の原点となっている。 定政の業績は、今日の都城や条里制に関する歴史学・地理学・考古学的研究の基礎をなすものである。本資料はその学問的方法と成果を詳細に物語り、今日に至っても学術的価値は高い。
関連情報
一つ書
一、著述・資料類
一、文書・記録類
一、詠草類
関連情報
一つ書
一つ書主名称
:
一、著述・資料類
一つ書員数
:
三百二十八点
ト書
:
関連情報
一つ書
一つ書主名称
:
一、文書・記録類
一つ書員数
:
二百八十三点
ト書
:
関連情報
一つ書
一つ書主名称
:
一、詠草類
一つ書員数
:
四百八十四点
ト書
: