国指定文化財等
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・・・国宝、重要文化財
国宝・重要文化財(美術工芸品)
主情報
名称
:
紙本著色鬼子母神十羅刹女像〈長谷川信春筆/〉
ふりがな
:
解説表示▶
員数
:
1幅
種別
:
絵画
国
:
日本
時代
:
室町
年代
:
1566~64
西暦
:
作者
:
長谷川信春
寸法・重量
:
品質・形状
:
ト書
:
永禄七年の年記がある
画賛・奥書・銘文等
:
伝来・その他参考となるべき事項
:
指定番号(登録番号)
:
01952
枝番
:
03
国宝・重文区分
:
重要文化財
重文指定年月日
:
1997.06.30(平成9.06.30)
国宝指定年月日
:
追加年月日
:
所在都道府県
:
富山県
所在地
:
保管施設の名称
:
所有者名
:
大法寺
管理団体・管理責任者名
:
解説文:
これら四幅は等伯【とうはく】が熱心に信仰していた日蓮宗の本尊、祖師、守護神を表したもので、祖師像を除けば等伯の遺品としては他に遺例を聞かない。いずれも色彩が鮮やかで、繊細な筆致をもって細部の文様や装飾にいたるまで丁寧に描かれており、室町時代末期の仏画でありながら鑑賞性も高く、若き日の等伯の優れた画技をうかがうことができる。しかも、三十番神像を除く三幅は年記のあるものでは最も初期の作例に属し、等伯の画歴を考えるうえでも重要である。また、これら三幅には初期の等伯筆日蓮宗関係の作品同様、父の道浄が款印を加えており、他の主題とはちがった等伯の制作意識をうかがうことができる。このうち鬼子母神十羅刹女像には鬼子母神の夫とされる散脂大将(半支迦大将)が描き加えられている点が珍しく、この形式では本図が最も古いようである。また、三十番神像では各神の背後の屏風に、花鳥図などが細かく描き出されている点に他にない特色が認められる。
鬼子母神十羅刹女像には奉納者として日恵の名が見え、三十番神像以外の三幅の題目はいずれも同人の筆跡になると思われるところから、これら三幅は日恵が中心となって制作が進められたと考えられる。日恵は『本化別頭仏祖統記』によれば身延山一七代日新に師事し、字を慈眼、号を遠了院と称した。相模本覚寺一一代住職、京都妙伝寺中興六世、鎌倉本覚寺などを歴任して寛永元年(一六二四)に没している。岡崎市円頓寺の「法華経曼荼羅図」の、今は失われてしまった旧裏書には「抑此御本尊者当山第六世中興開基慈眼院日恵上人/永禄十一戊辰十二月於越中新河群【ママ】金山谷本顕寺/令図之希有之本尊也然当山第卅一世誠峰院日竟上人/能州滝谷妙成寺在山之砌感得之則此山使什宝納之/于時享保十六年辛亥年二月十七日也」とある。永禄十一年(一五六八)は妙成寺涅槃図が描かれた年でもあり、日恵のこうした行動は若き日の等伯の画業を考えるうえで注目される。なお、大法寺は享徳二年(一四五三)に日能が開山となって放生津に建立したもので、前田利長が慶長十四年に高岡城を築城するにあたり現地に移転している。箱書きによればこれらの図は寛永三年(一六二六)に没した第一〇世日行の代に当寺に施入された。
上洛する以前の長谷川等伯は仏画や肖像画を専門とした絵仏師としての性格が強かった。しかしながらこれまで信春時代の作品は、肖像画と花鳥画が指定されているだけで、本領とすべき仏画の指定はなかった。長谷川等伯の画業全体を見渡したとき、こうした初期の仏画をも含めて保存を図ることが必要と思われる。
(参考)内箱蓋裏墨書
「長谷川又四郎畫五幅對佛像/第十世照盛院日行代某納之/昭和十四年一月第廿九世貫中院日誠代再修覆/為本壽院長遠日量信士/本量院妙尚日壽信女追善菩提/表具再修覆施主/堀岡村堺三六」
関連情報
(情報の有無)
附指定
なし
一つ書
なし
添付ファイル
なし
解説文
これら四幅は等伯【とうはく】が熱心に信仰していた日蓮宗の本尊、祖師、守護神を表したもので、祖師像を除けば等伯の遺品としては他に遺例を聞かない。いずれも色彩が鮮やかで、繊細な筆致をもって細部の文様や装飾にいたるまで丁寧に描かれており、室町時代末期の仏画でありながら鑑賞性も高く、若き日の等伯の優れた画技をうかがうことができる。しかも、三十番神像を除く三幅は年記のあるものでは最も初期の作例に属し、等伯の画歴を考えるうえでも重要である。また、これら三幅には初期の等伯筆日蓮宗関係の作品同様、父の道浄が款印を加えており、他の主題とはちがった等伯の制作意識をうかがうことができる。このうち鬼子母神十羅刹女像には鬼子母神の夫とされる散脂大将(半支迦大将)が描き加えられている点が珍しく、この形式では本図が最も古いようである。また、三十番神像では各神の背後の屏風に、花鳥図などが細かく描き出されている点に他にない特色が認められる。 鬼子母神十羅刹女像には奉納者として日恵の名が見え、三十番神像以外の三幅の題目はいずれも同人の筆跡になると思われるところから、これら三幅は日恵が中心となって制作が進められたと考えられる。日恵は『本化別頭仏祖統記』によれば身延山一七代日新に師事し、字を慈眼、号を遠了院と称した。相模本覚寺一一代住職、京都妙伝寺中興六世、鎌倉本覚寺などを歴任して寛永元年(一六二四)に没している。岡崎市円頓寺の「法華経曼荼羅図」の、今は失われてしまった旧裏書には「抑此御本尊者当山第六世中興開基慈眼院日恵上人/永禄十一戊辰十二月於越中新河群【ママ】金山谷本顕寺/令図之希有之本尊也然当山第卅一世誠峰院日竟上人/能州滝谷妙成寺在山之砌感得之則此山使什宝納之/于時享保十六年辛亥年二月十七日也」とある。永禄十一年(一五六八)は妙成寺涅槃図が描かれた年でもあり、日恵のこうした行動は若き日の等伯の画業を考えるうえで注目される。なお、大法寺は享徳二年(一四五三)に日能が開山となって放生津に建立したもので、前田利長が慶長十四年に高岡城を築城するにあたり現地に移転している。箱書きによればこれらの図は寛永三年(一六二六)に没した第一〇世日行の代に当寺に施入された。 上洛する以前の長谷川等伯は仏画や肖像画を専門とした絵仏師としての性格が強かった。しかしながらこれまで信春時代の作品は、肖像画と花鳥画が指定されているだけで、本領とすべき仏画の指定はなかった。長谷川等伯の画業全体を見渡したとき、こうした初期の仏画をも含めて保存を図ることが必要と思われる。 (参考)内箱蓋裏墨書 「長谷川又四郎畫五幅對佛像/第十世照盛院日行代某納之/昭和十四年一月第廿九世貫中院日誠代再修覆/為本壽院長遠日量信士/本量院妙尚日壽信女追善菩提/表具再修覆施主/堀岡村堺三六」